戦国時代の神社仏閣の焼き討ち事件をまとめてみました。
■南都焼き討ち・・・治承4年(1180年)12月
平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。
平治の乱の後、大和国が清盛の知行国になった際に清盛は南都寺院が保持していた旧来の特権を無視して大和全域において検断を行った。これに対して南都寺院側は強く反発した。特に聖武天皇の発願によって建立されて、以後鎮護国家体制の象徴的存在として歴代天皇の崇敬を受けてきた東大寺と藤原氏の氏寺であった興福寺は、それぞれ皇室と摂関家の権威を背景とし、また大衆(だいしゅ)と呼ばれる僧侶集団が元来自衛を目的として結成していた僧兵と呼ばれる武装組織の兵力を恃みとして、これに反抗していた。
平重衡らの放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われる。ただ興福寺・大仏殿までも焼き払うような大規模な延焼は、重衡たちの予想を上回るものであったと考えられる。
これによって奈良の主要部を巻き込む大火災が発生、興福寺・東大寺などの有力な寺院が焼け落ちて多数の僧侶や避難していた住民など、数千人が焼死した。特に東大寺は金堂(大仏殿)など主要建築物の殆どを失い、中心から離れた法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外は全て灰燼に帰するなど大打撃を蒙った。興福寺でも三基の塔の他、金堂・講堂・北円堂・南円堂など38の施設を焼いたと言われている。
この知らせを受けた九条兼実は日記『玉葉』に「凡そ言語の及ぶ所にあらず」と悲嘆の言葉を綴っている。重衡は29日に帰京し、この時持ち帰られた49の首級は、ことごとく溝や堀にうち捨てられたという。
年が明けて治承5年になると清盛は直ちに東大寺や興福寺の荘園・所領を悉く没収して別当・僧綱らを更迭、これらの寺院の再建を認めない方針を示した。ところが、その最中に親平氏政権派の高倉上皇が死去、続いて閏2月4日(1181年3月20日)には清盛自身も謎の高熱を発して死去。人々はこれを南都焼討の仏罰と噂した。また、東国の源頼朝の動きも不穏との情報が入ってきたために、清盛に代わって政権を継承した平宗盛は、3月1日に東大寺・興福寺以下の南都諸寺への処分を全て撤回した。
4月に入ると、平氏政権側は後白河法皇が南都の被害状況を把握するために使者(院司蔵人藤原行隆)を派遣することを容認した。行隆は同地で重源という僧侶と出会い、東大寺再建の必要性を説かれる。帰京した行隆の報告を受けた法皇は重源を召して大勧進職に任命、直ちに東大寺の再建に取り掛かることになった。また、興福寺も後に再興され、後に大和国守護の地位を獲得することになる。
■比叡山焼き討ち(信長)
詳細は、当ブログ内の記事をご参照ください。
■英彦山焼き討ち(大友宗麟)(福岡県添田町)・・・天正9年(1581)10月
英彦山はその後、秋月種実と軍事同盟を結んだため、天正9年(1581年)10月、敵対する大友義統の軍勢による焼き討ちを受け、1ヶ月あまり続いた戦闘によって多くの坊舎が焼け落ち、多数の死者を出して大きく勢力を失った。大友氏の衰退後は、新領主として豊前に入った細川忠興が強力な領国経営を推し進めたため、佐々木氏とともにさらにその勢力は衰退したという。
■槇尾寺(施福寺)を焼き討ち(堀秀政)・・・天正9年(1581)4月
堀秀政が織田信長に従わなかった施福寺(せふくじ)を焼き討ちした。同寺は、大阪府和泉市にある天台宗の仏教寺院。
豊臣秀頼の援助により、慶長8年(1603年)に伽藍が復興された。
近世には徳川家の援助で栄え、その関係で寛永年間頃に真言宗から天台宗に改宗、江戸の寛永寺の末寺となった。
■根来寺を焼き討ち(秀吉)・・・天正11年(1583)
石山本願寺を援助するなどして、中央権力の支配に反抗していたため、紀州の高野山を降伏させ、根来寺を焼き討ちした。
■比叡山延暦寺焼き討ち(細川政元)・・・明応8年(1499)
政変後、越中国へ亡命し、亡命政権(越中公方)を樹立していた足利義稙(義材)は、明応8年(1499年)に北陸の兵を率いて近江にまで侵攻し、比叡山延暦寺を味方に付ける。こうした延暦寺の行動を素早く察知した政元は早速行動に移った。赤沢朝経と波々伯部宗量に命じて7月11日の早朝に延暦寺を攻撃、大規模な焼き討ちを行わせたのである。この攻撃で根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍は全焼した。
■比叡山延暦寺焼き討ち(足利義教)・・・永享7年(1435)2月
もともと天台座主であった義教は還俗後すぐに弟の義承を天台座主に任じ、天台勢力の取り込みを図った。永享5年(1433年)に延暦寺山徒は幕府の山門奉行に不正があったとして弾劾訴訟を行った。管領細川持之が融和策を唱えたため、義教は山門奉行を配流することで事件を収めた。しかし山徒は勝訴の勢いにのり、訴訟に同調しなかった園城寺を焼き討ちする事件が起こる。義教は激怒し、自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲した。これをみて比叡山側は降伏し、一旦和睦が成立した。
しかし翌年(1434年)7月、延暦寺が鎌倉公方足利持氏と通謀し、義教を呪詛しているとの噂が流れた。義教はただちに近江の守護である京極持高・六角満綱に命じ、比叡山一帯を包囲して物資の流入を妨げた。さらに11月には軍兵が比叡山の門前町である坂本の民家に火をかけ、住民が山上へ避難する騒ぎとなった。延暦寺側が降伏を申し入れ、管領細川持之ら幕府宿老も赦免要請を行ったが、義教はなかなか承諾しなかった。12月10日、持之ら幕府宿老5名が「比叡山赦免が成されなければ、自邸を焼いて本国に退去する」と強硬な要請を再三行った。12日、義教はようやく折れて和睦が成立し、延暦寺代表の山門使節4人を謁見した後に軍を引いた。
しかし義教は本心では許しておらず、同7年(1435年)2月、先の4人を京に招いた。彼らは義教を疑ってなかなか上洛しなかった。しかし、管領の誓紙が差し出されたために4人が出頭したところ、彼らは捕らえられて首をはねられた。これを聞いた延暦寺の山徒は激昂し、抗議のため根本中堂に火をかけ、24人の山徒が焼身自殺した。
炎は京都からも見え、世情は騒然となった。義教は比叡山について噂する者を斬罪に処す触れを出した。その後、山門使節の後任には親幕派の僧侶が新たに任命され、半年後には根本中堂の再建が開始された。
■上京焼き討ち(信長)・・・元亀4(1573)4月
足利義昭自身が松永久秀や三好義継、三好三人衆らと結んで挙兵。公然と信長と戦う姿勢を見せた。
信長は和睦交渉を続けつつも、上京と下京への焼き討ちを命じた。驚愕した京の町衆は焼き討ち中止を懇願し、上京は銀1500枚、下京は銀800枚を信長に差し出した。信長は下京の市民を気遣い、銀を受け取らずに焼き討ちは中止したが、幕臣や幕府を支持する商人などが多く住居する上京は許さなかった。
4月2日、信長は柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・中川重政・明智光秀・荒木村重・細川藤孝ら7人に7000~8000の軍勢を預け、市外に放火させた。翌4日には二条城を包囲し、上京に放火した。この時の光景についてフロイスは次のように記している(傍線引用者)。
「恐るべき戦慄的な情景が展開され、全上京は深更から翌日まで、同地にあったすべての寺院、僧院、神、仏、財宝、家屋もろとも焼失し、確認されたところでは、都周辺の平地二、三里にわたって五十ヵ村ほどが焼け、最後の審判の日さながらであったという。兵士や盗賊たちは僧院に赴き、哀れな仏僧らは僧衣を俗服に替え、袖や懐に彼らが所持していた金銀、また良き茶の湯の器を押し込んだが、その結果、さっそく追剥の手中に陥り、所持品や衣服を奪われたのみならず、虐待と拷問によって、彼らが隠匿していたものを白状するように強制され、結局そのとおりにさせられてしまった。兵士や盗賊らが、出会った男女や子供たちからその所持品を奪い取るため加えていた残虐行為に接するのは、きわめて嘆かわしいことであった」
これを見た義昭側では「同所(上京)で聞いた恐怖なり不断の喚声に圧倒された彼らの驚愕は非常なもの」で、信長と和平交渉が開始されたという。信長はさらに二条城の周囲に4つの砦を築いた。
7日、正親町天皇から和睦の勅命が出されると、信長と義昭はこれを受け入れて和睦した。
■一宮神社 (愛媛県新居浜市)・・・天正13年(1585年)
天正13年(1585年)に起こった天正の陣の際、毛利氏・小早川隆景軍の焼き討ちに遭い消失。秀吉の四国平定戦の際に、伊予方面から侵攻したのが毛利勢で、戦後、小早川隆景に伊予一国が与えられている。その後、毛利氏に不幸が続いたために祟りがおりたと恐れ、元和6年(1620年)に毛利氏により再建された。この際、御分霊を長門の萩城下に勧請し分社を建て、厚く奉ったという。
■八坂神社 (大分県臼杵市)
臼杵に本拠地を置いて豊後国を治めた大友宗麟がキリスト教に帰依し、神道や仏教は迫害を受け、焼き討ちに遭う寺社も多かったため、この神社も臼杵湾沿岸の岩窟や、津久見、日向国飫肥にまで遷座を余儀なくされたといわれる。しかし、大友氏が文禄2年(1593年)に改易されると、慶長3年(1598年)、太田一吉の治世に臼杵城三の丸であった現在地に鎮座した。
■東大寺大仏殿焼き討ち(松永久秀?)・・・永禄10年(1567年)10月
信長が語った久秀の「三悪事」(三好家乗っ取り・永禄の変・東大寺大仏殿焼き討ち)の一つ。
永禄10年(1567年)2月16日に三人衆のもとから義継が久秀を頼って出奔してきたため、これを契機に勢力を盛り返し、4月7日に堺から信貴山城に復帰。4月18日に三人衆が大和へ出陣、10月10日、長い対陣の末に三人衆の陣である東大寺の奇襲に成功し、久秀は畿内の主導権を得た(東大寺大仏殿の戦い)。この時久秀が大仏殿に火を放ったとも言われるが、ルイス・フロイスの『日本史』によれば、この出火は三好方のキリシタンの放火によるものであると記述されている。
■吉備津彦神社(岡山市北区一宮の備前国一宮)
戦国時代には、日蓮宗を信奉する金川城主・松田元成による焼き討ちに遭い社殿を焼失した。松田氏滅亡後、宇喜多直家が崇敬し、高松城水攻めの際には羽柴秀吉も武運を祈願したと伝えられている。
■宇佐神宮
戦国時代には豊後の守護戦国大名大友氏と、豊前国に手を伸ばしていた中国地方の覇者大内氏(のちには毛利氏)との間で板挟みになり、大内氏の庇護下に入り大友氏と対立した。特に大内盛見や大内義隆の代には手厚く保護され、消失した社殿の造営や復興が行われた。また、宇佐神宮には大内氏から贈られた神宝もいくつか残されている。しかし、大寧寺の変により大内義隆が滅びると後ろ盾を失い、大友宗麟の手で再び焼き討ちされ、このときは大宮司宮成公建らは北九州市の到津八幡まで逃げ延びることとなった。
豊臣秀吉の九州平定後、豊前には毛利氏、ついで黒田氏と相次いで有力大名が進駐した。
江戸時代には、宇佐一帯は中津藩・佐賀藩飛び地・天領などが複雑に入り組む土地となった。その中に、幕府から寄進された宇佐神宮の神領も存続することになった。
■ 立石寺(山形市)
大永元年(1521年)、天童頼長の兵火を受けて一山焼失した。
天童頼長は斯波兼頼の孫の斯波(天童)頼直を祖とする天童家の末裔。
永正17年(1520年)、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際立石寺が伊達側に加勢したために、頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたものである。
なお、現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。
焼き討ちの際に、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、再度、分燈することとなるが、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺側から逆に分燈されることとなった。
天童は将棋の駒で有名ですよね。それと、延暦寺とそのような関係があったのは初耳でした。
■ 立石寺(山形市)
大永元年(1521年)、天童頼長の兵火を受けて一山焼失した。
天童頼長は斯波兼頼の孫の斯波(天童)頼直を祖とする天童家の末裔。
永正17年(1520年)、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際立石寺が伊達側に加勢したために、頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたものである。
なお、現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。
焼き討ちの際に、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、再度、分燈することとなるが、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺側から逆に分燈されることとなった。
天童は将棋の駒で有名ですよね。それと、延暦寺とそのような関係があったのは初耳でした。
また、黒田官兵衛は寺社仏閣勢力との融和を図り、キリスト教勢力を含めて、共存を図りました。それが一番いいと思います。自分の宗教が唯一絶対の宗教だと主張している人たちもいますが、そんなこと言ってもそれを信じない人がいる。でも、その人たちも同じ人間なんだから、強制するわけにはいかないと思います。官兵衛は”信教の自由”を求めていたのではないでしょうか。
そのあたりは、拙著「キリシタン武将だったんだよ、黒田官兵衛」にまとめていますので、よろしければご覧下さい(定価280円とお安くしておりますので)。
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