2014年1月9日木曜日

1月11日に何があったか




111日に何があったか

604年   聖徳太子(厩戸皇子)が冠位十二階の制度を制定。

1172年   平徳子(建礼門院徳子)が後白河法皇の養女として入内する。

1547年   足利義輝が近江坂本の地で将軍に就任する。
 

コメント:義輝は政治力があり、かつ、塚原卜伝から剣術を伝授されていました。

京都でのキリスト教の布教を許可しています。

また、長尾輝虎、毛利輝元などに「輝」の字を与えています。
 

1696年   大坂・千日前で、赤根屋半七と女舞三勝が心中。浄瑠璃『艶容女舞衣』の題材に。

1787年   ウィリアム・ハーシェルが天王星の2つの衛星、チタニアおよびオベロンを発見。

1851年   太平天国の乱。清国で洪秀全が率いる集団が武装蜂起。

1878年   太政官布告により伊豆諸島が静岡県から東京府に移管。

1908年   グランド・キャニオン国定公園を設置。

1922年   糖尿病患者に世界初のインスリン投与。

1923年   フランス・ベルギー軍が、ドイツの第一次世界大戦賠償支払の遅延を理由に
ルール鉱工業地帯を占領。

1930年   濱口雄幸内閣が金輸出を解禁し金本位制に復帰する(金解禁)。

1930年   聖徳太子の肖像の新百円札が発行。

1935年   アメリア・イアハートがハワイ・カリフォルニア間の単独飛行に成功。

1938年   厚生省設置。

1942年   第二次世界大戦: 日本陸軍の第五師団によってクアラルンプール占領。

1942年   第二次世界大戦: 蘭印作戦開始。日本軍がオランダ領東インドのタラカン島と
メナドに侵攻する。

1943年   中華民国駐米大使魏道明がアメリカのハル国務長官とワシントンで中米平等新約
を、
外交部長宋子文がイギリスのシーモア(Seymour)駐華大使とインド帝国代表リチャードソン
と重慶で中英平等新約を締結し、アメリカとイギリスが中国における権益を放棄する。
 

1958年   大韓民国の野党・進歩党の曺奉岩委員長・尹吉重幹事長ら党首脳部を
国家保安法違反で一斉逮捕(進歩党事件)。
 

1962年   中国共産党の「七千人大会」が開会。毛沢東党主席が大躍進政策の失敗を認め
自己批判する。
 

1965年   東京都大島町元町で、町の70%が消滅する大火事災害(大島大火)が発生。


1966年   東京で初のスモッグ警報発令。

1972年   東パキスタンがバングラデシュに改称。

1973年   中華人民共和国に日本大使館を設置。

1978年   ソユーズ計画: ソ連の宇宙船「ソユーズ26号」「ソユーズ27号」、
軌道科学ステーション「サリュート6号」が、史上初の3つの宇宙船によるドッキング。
 

1991年   リトアニア独立革命: ソビエト連邦軍がリトアニアへの軍事介入を開始。

1995年   4 P.M.(英語版)が歌う「上を向いて歩こう」が全米ヒットチャート10位に。

1996年   橋本龍太郎が第82代内閣総理大臣に就任し、第1次橋本内閣が発足。

2004年   初の2038年問題によりATMの誤作動が発生。

2007年   2007年における食品偽装問題: 不二家が期限切れの原材料を使用して
洋菓子を製造していたことが発覚。
 

2007年   中華人民共和国が衛星攻撃兵器の実験として
気象衛星「風雲1C」をミサイルで破壊。大量のスペースデブリが発生する。
 

2008年   参議院で否決された新テロ対策特措法案が、衆議院の再議決により可決。

2009年   インドネシアのカリマンタン島沖で地元フェリーが沈没。死者100名以上。

2012年   広島刑務所で収監中の中国人受刑者が脱獄
(広島刑務所中国人受刑者脱獄事件)、2日後に身柄を確保。
 

2013年   最高裁判所において、1類医薬品のインターネットによる
販売を禁じた厚生労働省令を違法とする判決。
 

2013年   セルヴァル作戦(フランスによるマリ共和国への軍事介入)開始。

○誕生日

347年   テオドシウス1世、東西に分裂した帝国を統一した最後のローマ皇帝(+ 395年)

1907年   山岡荘八、小説家(+ 1978年)
 

コメント:歴史小説を中心に活躍。本名は藤野 庄蔵(ふじの しょうぞう)。
従四位勲二等瑞宝章叙勲。

私自身は、徳川家康、柳生一族を読んだ記憶があります。小学生だったので、
内容は忘れました・・・(#^.^#)
 

1911年   鈴木善幸、第70代内閣総理大臣(+ 2004年)

1937年   江利チエミ、歌手(+ 1982年)

1939年   ちばてつや、漫画家
 

コメント:名作と呼ばれる作品を残した作家で、代表作に『あしたのジョー』
(高森朝雄=梶原一騎原作)、
『あした天気になあれ』、『のたり松太郎』、『みそっかす』などがあります。
 

1948年   輪島大士、大相撲第54代横綱

1973年   深津絵里、女優

1975年   持田真樹、女優、歌手

1977年   松岡昌宏、TOKIO

1978年   浜口京子、アマチュアレスリング

1985年   中嶋一貴、レーシングドライバー

1990年   窪田翔太、俳優

○亡くなった人

1886年   小野梓、法学者・東京専門学校(現、早稲田大学)創立者のひとり(* 1852年)

1891年   ジョルジュ・オスマン、パリの都市改造を主導したことで有名なフランスの政治家
       (* 1809年)

1974年   山本有三、小説家(* 1887年)

1982年   堀越二郎、航空技術者(* 1903年)
 

コメント:零戦の設計者として『風立ちぬ』の主人公として有名ですよね。
位階は従四位。勲等は勲三等。学位は工学博士(東京大学・1965年)。
 

1991年   松山英太郎、俳優(* 1942年)
 

コメント:『大岡越前』、『江戸を斬る』などの時代劇を中心に活躍した。
また、森繁久彌主演の『おやじのヒゲ』シリーズにも出演し、
繁と息の合ったところを見せた。

私生活では芦田伸介の一人娘、亜子と結婚・離婚を経験。
芸能関係者を中心に浮名が絶えなかったが、
1991年に他界するまで独身を通した(Wikipedia)。
 
小学生の頃、『大岡越前』、『江戸を斬る』の再放送を楽しみに見てました。
非常に印象深い役者さんでした。
 

2005年   加藤卓男、陶芸家(* 1917年)

2008年   藤倉修一、アナウンサー(* 1914年)

2008年   エドモンド・ヒラリー、登山家(* 1919年)

2008年   小野修一、将棋棋士(* 1958年)

2010年   エリック・ロメール、映画監督(* 1920年)

○記念日


・歌会始め
 

・鏡開き(日本)
 

正月に年神様に供えた鏡餅を雑煮や汁粉にして食べ、一家の円満を願う行事。

地方によって日が違い、京都では4日に、ほかに20日に行う地方もあるとのこと。
 

・蔵開き(日本)
 

コメント商家などで、新年初めて蔵を開き、商売繁盛を祈る行事。
江戸時代、大名が行った米蔵を開く儀式がその起源だそうです。
 

・塩の日(日本)
 

コメント「敵に塩を送る」という言葉の語源となった戦国時代の武将、
上杉謙信と武田信玄の故事に由来するそうです。
 
1569111日(旧暦)、上杉謙信の助けにより武田信玄のもとに塩が届いたそうです。

美談ですが、ビジネスチャンスだと思って送ったのかも知れませんし
(謙信の越後は日本海の海運などから税をとっていたので、裕福でした)、
そもそも本当の話だったかどうかよくわかりません。
 

大河ドラマ「軍師官兵衛」第1回の気づき(その2) 2014年1月5日


■傅役(もりやく)の母里小兵衛、小姓の武兵衛の今後

 

 傅役になるというのは、名誉なことであり、かつ、家中での地位向上にもなりました。

 主君の子の養育を任されるというのは、非常に信頼されている証でもあり、さらに、その子が成長して家督を継いだら、その家老的地位に就くことになりますから、非常にプラスなことでした。

 しかし、その子が命の危険にあったときには身を挺して守り、一命をもって諫めるようなこともありました。

 

例)平手政秀(織田信長)

 
 信長が誕生すると傅役となり、信長公の初陣を助け、美濃の斎藤道三との和議&濃姫との婚姻を取りまとめましたが、信長公の奇行を諌め諭し続けた末、父信秀公死去後、自刃してしまいます。享年62。信長の奇行を諌めるための自刃であったという忠臣としての美談は有名ですが、そうではなかったとする説もあるようです。

 

 さて、この二人が今後どうなるのか、それは、実際にドラマの中で確認してみましょう。

ちなみに、母里太兵衛(黒田武士「酒は呑め呑め~呑むならば・・・」は、この一族です。
また、母里氏は職隆の側室でもあります。


 







■小兵衛にはいつも苦労をかけますね

 

 

 母いわが、傅役の母里小兵衛に優しく声をかけます。個人的感想ですが、上司の奥さんにこんな言葉をかけられたら、仕事頑張っちゃいますよね。しかも、社交辞令のような感じではなく、その人の本心から言われた言葉だったらなおさら、ではないでしょうか。

 また、その言葉で恐縮する母里小兵衛だったからこそ、信頼され、傅役を仰せつかったのかも知れません。万吉が龍野城で捕縛されたことを知り、責任を感じて切腹しようとします。ドラマではその場面は直接描かれていませんでしたが、小兵衛を止めた‘いわ’は何と言って止めたのでしょうかね。


 


■なぜ、黒田主従は強かったか

 

野武士が攻めてきたときに、職隆や休夢(職隆の弟)たちが姫路城から出撃します。そして、13騎を討ち取ったことを、小寺政職に報告したとき、家老の江田善右衛門が、「黒田主従は強いというが、口ほどにもありませんな」と、黒田主従が強いという認識があったことがわかります。

黒田主従がなぜ強かったのか。強い組織ってどうしたらできるでしょうか。

その一つは信頼でしょう。チームの一人一人が信頼し合っていること。皆のために本気になれる組織が強い組織ではないでしょうか(もちろんスキルも必要ですが)。では、その信頼はどこから生まれてくるのか。その一つは、トップの愛から、だろうと思います。私事で恐縮ですが、仕事柄いろいろな会社を見てきて、行く先の会社の雰囲気ってトップの人の人柄が与える影響が大きいと感じています。トップの雰囲気が下に伝わっていきますし、それに共鳴する人が集まり、残っていっているように気がします。

 

職隆について、『黒田家譜』職隆記には、次のように書かれています。

 

「黒田美濃守職隆は、・・・(中略)・・・このときは乱世であったため、近隣の地侍と領地境界を争い、しばしば小競り合いを繰り返していたが、職隆は思慮深くて武勇があったため、自然と近隣の地侍たちは、職隆を主君のように仰いで帰順した。
 
 
 

ここで赤松の家臣小寺藤兵衛政職(のちに加賀守)は、西播磨で勢力を誇っていた。御着城を居城としていた。職隆はその家臣として手柄を多く立てた。政職はその忠義や武勇に感心して厚遇した。明石城主明石宗和の息女を養子として、職隆の妻とした。そのうえ、軍事権を貸し与え、姫路城を守らせた。小寺の姓と一字(職 引用者注)を与えられ、小寺職隆と名乗った。
 

職隆の家は、当初はとても貧しかったが、のちに、大いに裕福になった。生まれつき慈愛が深く、人に恵みを与え、61歳以上で妻がいない者)、寡(61歳以上で夫がいない者)、孤(16歳以下で父がいない者)、独(61歳以上で子がいない者)の窮民の飢えや寒さを救うため、大きな長屋を二つ作り、飢えた者たちを多く集め、道で路上生活者を見つけると、お前はわたしのところへ来るがよい、扶養すると言ったので、飢えた人たちが多く集まってきて、一人ひとりに食事を与え、衣服を着せて養っていた
 

後に、羽柴筑前守秀吉が、姫路にいた時に、職隆は生まれつき真心があることを知り、とても厚遇した。正月の新年のあいさつに、配下の者たちに盃を与えるのにも、最初に職隆に与えた。
 
 
 職隆が年老いて隠居したが、秀吉の出陣の間は城の留守居役をさせた。その人となりは、忠義があり信頼に足るものであったからであった。・・・(中略)・・・
 
 
 
こういうことが子孫繁栄の基礎なのだろう。総じて天道は善には幸いし、悪には禍をなされるように善悪応報があることは、このことによって理解できる。善を積む家にはその余慶があると。聖人が易経に説いているのも、このようなことであった。その人となりが温和で慈愛が深く、正直で義を守る心が強かった。品性が人に優れ善行が多かった。特に軍功が多く勇名をはせた。」(傍線 引用者)
 

  とあります。人に親切にして愛を施し、真心で接し、信頼を勝ち取って戦国の世を生き抜いた職隆の姿が描かれています。マムシの道三、宇喜多直家のように、策略でのし上がったというのとは対照的です。マネジメントのやり方も人それぞれかと思いますし、部下の性格にも寄ると思いますが、やはり愛がないと人はついてこないし、メンバーが信頼し合う強い組織にはならないかも知れません。私自身はそういう組織の方が好きです。