■江戸時代の講談本
公家文化に淫しお歯黒をつけて、短足胴長で落馬したとか、油断して本陣を襲われた愚か者とか、さんざんに書かれている。
■実像
決して、バカ殿ではない。
確かに、足利将軍を擁して天下に号令をかけたいという中世の秩序の枠内から決してはみ出ない価値観だったから、山名、細川、大内、三好などと同様、上洛できたとしても、決して天下泰平につながることはなかっただろう。
父親である氏親の制定した「今川仮名目録」に「仮名目録追加21か条」を制定し、検地の実施や領内の商工業の振興、諸役や伝馬制度の整備など、戦国大名としての優れた領国経営を実施している。
また、外交では、甲斐の武田、相模の北条と同盟を結び、西上のための後顧の憂いを無くしている(太原雪斎の寺、善徳寺にて武田信玄、北条氏康と同盟を結んでいる)。
そして、氏真に家督を譲り隠居し、次世代への継承に布石を打っている。これ以後、義元は新領土である分国の三河の鎮圧および経営に集中し、それが成るとさらには尾張以西への侵攻に力をそそぐこととなる。
信長に桶狭間に討たれたときも、上洛を考えていたのではなく、三河に伸ばした支配権をさらに、尾張まで伸ばしておこうというものだったといわれている。将来の上洛に備えて、尾張の織田、美濃の斎藤、近江の六角などの敵対勢力を倒し京都への道を開こうとしたのである。
ちなみに、晩年、氏真は徳川家康に召し出されて江戸幕府に出仕した。温情により500石を与えられ、これ以降、今川氏は旗本(高家旗本)として幕臣に列した。
大河ドラマ「信長 KING
OF ZIPANGU 第13話 ―桶狭間の戦い(前)―、第14話 ―桶狭間の戦い(後)―」が参考になります。比較的義元に良心的に描かれています。