2013年12月24日火曜日

毛利元就の履歴書(幼少期から元服まで 父母に先立たれる)


こんにちは!

今回は、大河ドラマ「毛利元就」を通して、学んでいきましょう。





 

 




このドラマは、女性作家の永井路子さん、内館牧子さんが台本を書かれ、 女性目線で描かれています。

男性目線では、軍事や外交、仕事上の人間関係に眼が向きがちですが、

女性目線だと、より広範囲に目配りがされていて、生活の肌感覚が伝わってきます。

もちろん、戦国時代の女性の感覚と、現代の感覚は全く異なるでしょうから、

その違いをどう考えるか、人それぞれでしょう。

ただ、現代の私たちにとって、戦国時代の人々の生き様を通して、

今私たちがどう生きるか、何のために生きるのかということを考える上では、

その「違い」にあえて目をつぶるという手もあります。

前置きはそれくらいにして、どんどん先に進みましょう。

 

元就の幼少時代~初陣

(1)概況

ちょっと退屈ですが、以下をざっと読んでみてください。大まかな流れを把握してみましょう。





「毛利元就は明応6年(1497年)314日、安芸の国人領主毛利弘元と福原氏との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。出生地は母の実家の鈴尾城(福原城)と言われ、現在は毛利元就誕生の石碑が残っている。

明応9年(1500年)に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意。嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて多治比猿掛城に移り住む。
翌文亀元年(1501年)には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506年)に、父・弘元が酒毒が原因で死去。松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。松寿丸はその哀れな境遇から「乞食若殿」と貶されていたという。

この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と養母の杉大方について書き残している。

永正8年(1511年)杉大方は、京都にいた興元に使いを出して松寿丸の元服について相談し、兄の許可を貰って松寿丸は元服。多治比(丹比)元就を名乗って分家を立て、多治比(「たじひ」だが地元では「たんぴ」と読む)殿と呼ばれるようになった。

永正13年(1516年)、長兄・興元が急死した。死因は酒毒であった。父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場には出ても自らは下戸だと口をつけなかったという。
家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。
毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。毛利家中の動揺をついて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻。武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣する。元就にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。」

どうでしょうか?

なんかお父さんやお母さんが幼い頃に亡くなって、

兄とも死別し、自分の領地も家臣に横領され、大変苦労したことが伝わってきますよね(涙)。

(2)誕生

まず、元就(松寿丸)の子供時代から、学ぼう!

大河ドラマでは、5才頃に尼子経久と遭遇し、体を張って矢を放ち、「わしは毛利の松寿丸じゃ」と名乗りを上げたが、経久は難なく矢を掴み取り、「松寿丸殿、強弓(こわゆみ)をひける年頃になったら、戦場で会おう」と命拾いします。

尼子経久は出雲国の守護代から、守護の京極氏を排除して、戦国大名として台頭した。彼は、出雲から密かに安芸の吉田郡山城に軍勢を送り、郡山城を奪取して安芸国への進出の足がかりにしようと狙っていました。創作かも知れませんが、十分にありえたことだと思います。

(3)少年時代

大河ドラマでは、母と死別して心を閉じ、今でいう非行に走っていたと描かれています。





母は弘元の正室でしたが、4歳のときに死別します。

お母さんに甘えたい時期に、別れなければならない辛さ。
私自身は経験がないので想像するしかないですが、
寄りかかっていたものが崩れ去って、崖から突き落とされるような、信じていたものに裏切られたような、あんなに好きだった人にふられたときのような、空虚さ・・・

隠居した酒浸りになる父。兄は当主として郡山城にいて、はなればなれ。ひとりぼっち。
愛が欲しい。いや、自分は愛なんていらぬ、と強がってみせる。
悪ガキたちと悪さをしてまわって、そのときはすかっとするが、夜、独りになると虚しく、寂しい。

のちに父も兄も亡くなり、「元就は、また一人ぼっちになってしもうたぁ~(号泣)」という元就が天を仰ぎます。この深い悲しみが、彼の人生の原点だったと思います。

家族を大切にする。自分にとって大切な家族だから。もう一人も失いたくない。別れは嫌だ。だから大切にしたい。今、共に生きている、この時間を大切にしたい。家族を守りたいから、俺は戦う。
そんな気持ちが底にあったんだろうと思います。

そんなとき、杉の方が親代わりとなるのです。
父弘元の側室である杉の方は、弘元との間に子がなかった。彼女は元就に愛を注ぎます。彼女自身も夫の弘元に先立たれ、誰かの後ぞえに入ることもなく、生涯独身を通します。
大河ドラマでは、元就は杉の方を毛嫌いし、納屋に閉じ込めたりして、杉の方も元就を嫌って対立していました。のちに仲直りし、母親代りとして、元就に愛を注ぎます。彼女のポジティブシンキング、たくましさ、明るさに感化され、元就も育ちました。
元就は、「杉どの」と呼んでいたのですが、後年、杉の方が亡くなる前に、はじめて「母上」と呼ぶのです。杉の方の喜びがいかほどであったかは、想像に難くありません。

(4)元服

元就は元服します。

毛利元就は次男坊でした。元就という名前は元服したあとの名前ですが、毛利家では、嫡子である長男は、名前が「元」という形で付けられ、それ以外のものは「元」と名付けられます。

父は弘元、兄は興元、息子は隆元、孫は輝元。皆、嫡流です。
一方、元就、相合元綱(異母弟)、吉川元春、佐野元春(ちがうか、笑い)、となっています。
なぜそうなったか?おそらく、先祖が大江広元だったから、嫡流は広元にならって元としたのでしょう。

まあ、うんちくはほどほどにして、兄興元の子幸松丸の後見人として一族衆として補佐します。

その元就が、安芸の守護家である武田信繁との戦いで、信繁を討ち取るという大手柄を立てますす。大河ドラマでは、武田方の熊谷元直を伏兵をもって討ち取り、さらに、いきり立つ信繁と、一騎打ちをしてわざと負けて逃げ、追いかけてきた信繁を、弓兵の一斉射撃で討ち取ります。後に、西国の桶狭間と言われる、鮮やかな奇策で、何倍の数の相手を撃退します(有田合戦、有田中井手の戦い。元就21歳)。

毛利勢は武田勢に比べると4倍余りの兵力差があったと言われます。
軍事力は兵数の二乗になると言われるように、兵数が4:1だと、その軍事力は16:1となります。だから、元就も武田勢と正面衝突していては、とてもかないません。

こういうときにどう戦ったらいいのか。元就は策を練りました。

相手の心理を読み、そこに生じた隙を突くのが一つの方法です。
わざと負けたとみせかけて逃げ、伏兵で敵を倒す、とか。自分の軍勢を多く見せかけて、敵兵の戦意を喪失させるとか。相手方の寝返りを誘うとか。
あるいは、大軍が展開しにくい、狭い地形のところに誘い込んで戦うのも一つの方法でしょう。
それにしても、相手を騙して、誘い込むことが必要になります。

もし大軍と小勢の軍勢が戦ったときに、お互いに死力を尽くして戦ったら、恐らく大軍が勝つでしょう。しかし、実際の戦いでは、そうではないようです。

敵兵も人間ですし、戦いに慣れていない農民たちが軍団の大部分ですから、味方が優勢のときには力があって意気があがっていて、死を恐れずに突進してきますが、
いったん不意を突かれたりして、死ぬリスクが見えると、「やばい!死ぬかも。死にたくない!逃げろ」と先を争って逃げまどい、陣形が崩れ、敵の攻撃を跳ね返す力が失われます。
要は、敵の鼻端をくじいて、勢いを止めたら、小勢でも敵に勝てる確率が上がるということです。

このとき、元就はどうやって戦ったでしょうか?

元就は、敵将をおびき出して、矢で狙撃して討ち取ったり、動きが取りにくい川の真ん中におびき出して包囲して討ち取るなどしています。総大将が打ち取られた敵軍は戦意を失い、兵たちが逃げ出してしまって負けてしまいます。

では、どうやって敵の大将をおびき出すか。敵も大将が討ち取られたら不利なことは知っていますから、そう簡単にはおびき出せません。おびき出す方法を考えるしかない。その方法も、敵将の性格にもよるでしょう。

武田元繁は「項羽」と呼ばれる猛将でした。「項羽」は自身が武芸に優れ、軍神のように自ら突進し向かうところ敵なしでした。元繁も、毛利方の奮戦で、一時戦況が不利になったときに、戦況を打開しようとして、自ら河を渡ってきました。元繁は毛利方に突撃を仕掛けましたが、川の水に自由を奪われたところを信繁を討ち取ることができました。大将を失った武田軍は崩れ、毛利方の追撃もあって、多くが打ち取られ、結局武田家は滅びてしまいます。


これにより、元就の男があがったわけです。
国人領主たちは、自分の領地を守っていくことが、まず第一目標であり、領地を増やすことや豊かになるのは、その次の目標ですから、元就のように戦上手なものが当主になって欲しいと願うようになります。幼少の幸松丸では、難局は乗り切れないだろう、と。

それでは今日はここまでにしましょう。さようなら。
 
 

毛利家の家紋の三ツ星は、オリオン座の腰の三連星がモデルらしい・・・
 




 

黒田長政の履歴書(関ヶ原の戦い前夜~家康のために動く~)


NHK大河「葵三代」の関ヶ原~黒田長政の出番~

黒田長政は、父官兵衛から家康方につくように、吉川広家や小早川秀秋を引き込んで毛利方の動きを封じつつ、豊臣恩顧の大名たちの動向に注意し、福島正則を抱き込んで、彼らを家康方につけることに成功したことは、有名な話しです。

ただ、三成が頑張り、何とか互角の勝負ができるように、いろいろな大名を味方に引き入れます。
大企業豊臣商事の課長クラスの三成が、よくもまあ、あんだけ人を集めてきたなあ、と司馬遼太郎氏も、関ヶ原のドラマにインタビューで答えておられます。

そのため、家康は黒田長政を使って、豊臣恩顧の大名が寝返らないように、画策するわけです。

結果として、毛利勢(毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊の南宮山、小早川秀秋の松尾山)の離反を誘い、徳川勢は秀忠の本隊の遅参の失策を補います。

もし、(は禁物ですが)毛利勢、長宗我部勢が、抑えだった池田輝政隊、山内一豊隊らに襲いかかったら、おそらく支えきれずに後退し、そこに寺沢隊、家康の旗本から兵を割かざるを得なかったでしょう。

小早川秀秋の寝返りがあるまでは、西軍が優勢だったと言われており、家康の脅しによって小早川秀秋が果たして寝返ったかどうか、微妙です。

戦う前から調略によって、有利にことを進めていた家康。

吉川広家は毛利勢を釘付けにして、勝利に貢献したのは間違いないですが、
毛利輝元の書状が見つかって、西軍に積極的に加担したことが発覚し、
毛利本家の領土が没収されそうになります。しかし、吉川広家の周旋により、
自らが宛てがわれる予定だった防長を、毛利本家に残すことを許されました。

輝元の書状を見せて、吉川広家を詰問する、福島正則、黒田長政らが、旧毛利領や小早川領に入封するのが象徴的(小早川秀秋は領地を没収されたのではなく岡山に加増転封ですが)でした。

吉川広家にしても、家康について毛利の安泰を図ろうとしたという見通しは正しかったですが、
毛利輝元の日和見が災いしたか、大幅な減封となります。
書状が証拠になって詰問されたわけです。
やはり内通するにしても書状などの証拠を残しておかないと、口約束だけで寝返りを約束して、所領を減らされたり没収されたりした大名もいます。

もしかしたら、毛利グループからは、リスクヘッジのため輝元は大坂城で日和見、秀元、安国寺は西軍、広家は東軍、小早川秀秋は微妙(東軍の調略を受けたと見せかけて、有利な方につこうとしたか)、でどちらか一方につくと、滅亡のリスクがあったので、両方に脚を突っ込んでいたのでしょうか?
そういう大名は他に多かった。家族で東西に分かれて戦った、ということが涙ながらに語られるドラマが多いですが、私はそこには冷徹な、お家存続のためのリスクヘッジがあったと考えています。
確かに悲しい気持ちはあるでしょう。しかし、命を捨ててお家存続を図ることが至上命題だったのです。命を大事にする、という現代人の感覚とは一線を画します。

ということで、西軍には脚を突っ込まず、運命を切り開いた官兵衛と長政と対照的な姿。
しかし、長政の調略がうまく効きすぎたのか、関ヶ原の戦いが半日で勝負を決してしまいます。
もう少し篭城戦が各地で展開されていたら、秀忠の本隊も美濃に到着し、戦況は膠着していたかも知れません。ただ、石田三成も金を使い果たしており、これ以上の長期戦は無理だったから、決戦を急いだ、とも言われていますが。

もし、もう三ヶ月あったら、官兵衛は少なくとも九州は統一していたでしょうか。現実には、久留米の毛利秀包、柳川の立花宗茂、佐賀の鍋島が、西軍のままで、攻撃が難航したかも知れません。ただ、何とか調略も駆使して統一するのが精一杯。

そこから、加藤清正を九州の守備に残し、毛利領地に侵入しながら、播磨姫路に上陸して大坂城を包囲・・・毛利輝元と交戦して勝利・・・西軍は籠城、奉行の周旋で停戦・・・では、官兵衛の運命は?毛利を飲み込んでの第三勢力として。あるいは、秀頼を頂いて、家康と対峙する・・・

やはり、天下をとるのは難しそうですね。家康との国力の差は明らかですから、今回の戦で、相当な出費があって疲弊している間に、決戦を挑むしか。
ただ、諸将が官兵衛の下知に従えばの話しですが。そうでなければ、小牧長久手の再現があるだけ。

官兵衛のIF本も作ってみたいですね。

では、またお会いしましょう。ここまで、お読みいただき、誠にありがとうございました。

秀吉の履歴書(豊臣政権が一代で崩壊し、家康の天下になった要因―黒田官兵衛の述懐)


豊臣政権が一代で崩壊し、家康の天下になった要因

日の出の勢いだった織田信長でさえ、天下布武の志の半ばで、家臣の裏切りにあって亡くなりました。

秀吉は家臣の中のナンバーワン1であったわけではありません。しかも、織田家の庶子がおり、彼らが信長の跡を継ぐものと思われていました。明智光秀を討って終わりではありません。

敵討ちという戦功があったものの、秀吉を快く思わない家臣もいたため、彼自身が天下をとるには、さらにもう一働きも二働きもする必要がありました。

黒田官兵衛をはじめとする家臣や、織田家の宿老たち、他の大名家(上杉、毛利)などの支持を取り付け、反対勢力を各個撃破して、圧倒的有利な状況を作り出していったわけです。

秀吉の軽妙なわざで人の懐に入り込む、褒美を与えて操縦する、というやり方自体が、強みだったといわれますが、そのやり方自体が仇となって、一代で政権が崩壊してしまった、と『名将言行録』に詳しく書かれています。また、どうして家康が政権を握るに至ったかも同様に書かれていますので、ご紹介いたします。

黒田官兵衛の項です。

官兵衛本人が言ったかどうかは不明です。『名将言行録』自体は史料価値は高くなく、後世になって「あとづけ」で創作された可能性があります。だから、評論家のあとづけ講釈として読めば、誤らないでしょう。

長いので、できるだけコンパクトに縮めます。

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豊臣政権が二代続かない理由

 

太閤が天下を治める様子による。

 

懐に入る身軽さ、色々と褒美を与えるから、親しみをもたれたが、真の忠誠心をもたれたわけではない。

 

太閤の世には、その身の果報や武勇からどのようにしても治まるが、子の代で同じやり方は通じない。威厳が失われるし、武功が元々ないから、人々から軽んじられるだろう。それを反対に、威を振るったら、太閤すらそうであったのにと不満が出て、世間のそうした気詰まりがでてきたことに飽く者も出てくる。しかし、太閤のように知行や財宝を与えることなど、とてもできないから、親しむ心がなくなり、諸将の離反を招き世が乱れるのは必定。

 

太閤が天下人になったからには、威厳を持って、行儀を正しくし、信念を持って国を治めれば、次代への相続も容易だろうが、今の状態では二代は続かない。

 

 

家康が天下人になった理由

 

家康は大身で、老巧で、武勇は天下無双。日常の行ないも律儀で、人々は皆彼を尊敬している。

 

また、生来の口不調法であり、人が失敗したり軽薄な行動をしても、見下げたり怒ったりすることもなく、その人の真の意思を汲み取る。

 

武の道については、その自信は人後におちない。太閤の面前で、長久手の武功を素直に言ってのけるくらいだから、自然に家康に一目置くようになり、心中で怖れるようになった。

 

だから、太閤のあとには、家康に天下が帰するであろう」と。のちに果たして孝高のいったとおりになった。

 

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もしかしたら、どこかで似たような評論に接したことがある方もいらっしゃるかも知れませんね。

「太閤が天下人になったからには、威厳を持って、行儀を正しくし、信念を持って国を治めれば、次代への相続も容易だろうが、」とあり、威厳が全くなかったわけではないが、やはり譜代の臣があまり強力ではなく、毛利・上杉をはじめ、大勢力への気遣いが必要で、徳川幕府のような武断政治で、どんどん外様の力を削っていくことは難しかったでしょう。困難は必至です。

譜代の臣といえる子飼いの武将や、三成をはじめとする吏僚派武将たちがいましたが、彼らを世継ぎの下に組織化する時間がないまま、朝鮮に出兵してしまったのは失敗だったでしょう。

前田利家と徳川家康以外は、膨大な戦費や死傷者を出して、国力がダウンしてしまったことは、家康の台頭を招きやすかったのではないでしょうか。

秀吉が長く続いた戦国の世をいったん終わらせた功績は変わることはないでしょう。
他の武将にはできない離れ業だったわけで、それを受け継いでいくことに暗かった、というべきでしょうか。

黒田官兵衛の履歴書(官兵衛の戦い方、新兵器!?)


突然ですが、

官兵衛が攻城用兵器を繰り出して城攻めを成功させた事例

四国征伐のとき、阿波岩倉城攻めで井楼を築いた

 
 岩倉城が要害だったため、犠牲を増やさないため、力攻めをやめ、井楼を築かせ、
その上から日に数回城内に向けて鉄砲を打掛けさせました。

 鉄砲は、火縄銃ではなく、抱え大砲だったと思われます。なぜなら、城方の動揺を与えるためには、それなりの威力が必要だからです。通常の鉄砲は射程が50100mで、弾も大きくありませんからね。

 さらに、寄せ手(城を攻める軍勢)が鬨の声をあげて、その声が山間にこだまし、城方を疲労させたりして、損害を少なく、城を開城させます(城将、長宗我部掃部頭親興は土佐へ逃げます)。

朝鮮の晋州城攻めで、亀甲車を利用して、城壁に無傷で接近し、城壁を登って、城を落とした。

 加藤清正と共同で攻め、亀甲車を利用したので、あたかも加藤清正の家臣が発明して製作したかのように語られている場合もあるが、亀甲車の利用を勧めたのは、官兵衛であったかも知れないと思う。

亀甲車とは、文字通り亀の甲羅のように装甲を貼った車の中に人を乗り込ませ、装甲が火矢を通さず、牛の毛皮を使っていて難燃性で、石を落とされて攻撃されてもびくともしない、というものです。

亀甲車は、中国の兵学書に書かれているので、兵学に通じたものなら知っているものでした。しかし、我が国の山城には使用が困難でした。それを朝鮮の平城で使用することを発案するためには、中国の兵学書に精通していて思いついたか、あるいは、明軍、朝鮮軍またはゲリラが使っているのを見て真似したか、または、キリスト教の宣教師から西洋の亀甲車の知識を教えてもらったか・・・・後者であれば、加藤清正はキリシタンではなかったし、嫌っていたから、キリシタンだった官兵衛の方に分がある。

後藤又兵衛が手柄を立て、晋州城は落ちます。
ちなみに、晋州城は福岡城を築城する際に、参考にされた城の一つです。

以上のように、新兵器もうまく利用しつつ、敵方の心理を巧みに圧迫して、城を攻め落とした官兵衛でした。

黒田官兵衛の履歴書(官兵衛の臨終場面。長政、栗山四郎右衛門利安に何を言い遺したか・・・)


かなり話が飛びますが、官兵衛の臨終場面は、彼がキリシタン信仰の熱心さを教えてくれます。

官兵衛「神父を呼んでくれ・・・ロザリオをくれ」
家臣「承知致しました」

しかし、神父は現れなかった。

官兵衛「長政、わしの合子甲と鎧は栗山利安に与える。これをわしを思い、忠勤を励んでくれ。」

長政・栗山「承知致しました(涙)。」

官兵衛「あと、博多に教会を建て教団を保護して欲しい。その教会にわしを葬ってくれ」
長政「父上・・・承知致しました。そこまで、伴天連のことを・・・」

官兵衛「頼んだぞ、長政」


伏見の黒田藩屋敷。二人が枕元に呼ばれたのは、官兵衛が二人を信頼したと共に、二人が官兵衛を信頼したとも言えるでしょう。

のちに、長政は博多のキリスト教会を作ることに同意します。
ただし、幕府に配慮して、官兵衛の追悼施設としての建設を認めます(教会ではなくて)。





長政が軟化し、官兵衛の弟の直之が熱心なキリシタンであったこともあり、
博多でのキリシタンの布教は一時盛んになります。
徳川幕府が慎重な姿勢であったこともあり、全国的に盛んになります。九州だけではありませんでした。愛知、東北、広島などです。

つぎに、甲冑を息子ではなく、腹心の部下に与えたことも意味があります。
後の黒田騒動の遠因となったからです。栗山利安の子栗山大膳が黒田家の忠義を貫いたのも、
官兵衛の甲冑を家宝とし、黒田家への命懸けのご奉公を家訓としたことから生じたものだと思います。





ご存知ない方のために・・・・

「黒田騒動(くろだそうどう)は、福岡藩で発生したお家騒動。栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。伊達騒動、加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。
長政は世継ぎ継承にあたり長男忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決め忠之に書状を送る。書状には二千石の田地で百姓をするか、一万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるかと非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に進める。そして六百石以上二千石未満の藩士の嫡子達を集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去。大膳はそこで忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹、次第に距離を置くようになる。2代藩主・忠之は寛永元年(1624年)藩主就任早々、彼とその側近と筆頭家老・栗山利章(大膳)など宿老との間に軋轢を生じ、生前の長政が憂いていたとおりにお家騒動へと発展した。忠之は児小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じ豪華な大船・鳳凰丸を建造、更に200人の足軽を新規に召し抱えるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に幕府より咎めを受けるに至った。栗山利章は寛永9年(1632年)6月、藩主が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。このため幕閣は利章を尋問した。寛永10年(1633年)2月、幕府は所領安堵の触れを出し10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。利章は騒動の責を負って陸奥国の盛岡藩預かりとなり、十太夫も追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に戻り鎮圧軍に従軍したが、戦死した。
この事件を森鷗外が小説『栗山大膳』において、改易を危惧した利章が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色し描いている。十太夫は、島原の乱で一揆軍に加わり戦死したことになっている。(Wikipediaより)
また、官兵衛が家臣たちの殉死を禁止していなければ、栗山利安は殉死していたかも知れない。しかし、官兵衛が禁止しました。これは、彼はキリシタンだったから、自殺を禁止したことの延長線上にあったこともあるでしょうし、無駄死をやめて長政に仕えて欲しいという気持ちからだとも思えます。