2014年1月6日月曜日

私は生涯一人の妻しか持ちませんでした、私は「これ」で会社を辞めました(小指)!特集(その3) 毛利元就、小早川隆景


毛利元就

 


 

正室の存命中は、側室を持たなかったと言われている。

 

妻の妙玖(みょうきゅう、法名で本名は不詳)は、吉川家の出身で、元就との間に長女(高橋氏人質、夭折)、毛利隆元、五龍局、吉川元春、小早川隆景を設けた。政略結婚であったが、元就との夫婦仲は良かったとされている。妙玖が存命中には側室は置かず、「三子教訓状」の中でも、その死を惜しんで息子達に彼女の供養を惜しまぬよう命じている。

 

元就の場合には、三人の男子に恵まれ、三人ともしっかりとした武将に育っており、側室を置く必要性は感じなかったのかも知れない。

 

小早川隆景

 
 

小早川隆景にも側室がいなかった。そして、世継ぎがいなかった。

 

隆景は、毛利元就と正室妙玖の三男として生まれた。小早川氏の本家・沼田小早川家の当主・小早川正平は21歳の若さで討死したため、繁平が沼田小早川家の家督を継いだ。しかし、繁平は幼少の上に病弱だったため、大内義隆や毛利元就に尼子氏の侵攻が始まった際に防げないと懸念され、天文19年(1550年)、尼子氏と内通した疑いで拘禁し、強引な手段で強制的に隠居・出家に追い込まれた。このとき、天文20年(1551年)、分家の竹原小早川家を継いでいた隆景に沼田小早川家の家督も継がせるために隆景は問田の大方と結婚した。

 

二人の間に子はなかったが、隆景は側室を置かず、夫婦仲は睦まじいものであった。しかし、二人の間には子供ができなかったため、夫婦仲は睦まじいことがかえって、小早川本家の血筋が途絶えることになってしまった。その後、元就の末子である才菊丸を養子に迎え、小早川元総(後の小早川秀包)と名乗らせて、家督を継がせた。

 

 こののち、秀吉から毛利家乗っ取りを画策され、羽柴秀俊を養子に入れられそうになったが、隆景が自分の養子にすることで乗っ取りを回避した。このため、小早川元総(後の小早川秀包)は廃嫡され、別家を創設している。

 

 小早川隆景は、妻と仲がよかったと言われているが、婿養子であることの気遣いからか、妻と接するに礼人のごとくであったという。養子を迎えれば、家名断絶は避けられたが、秀秋を養子にもらったばかりに、彼の働きの影響で、毛利本家は大幅な減封となってしまった。

私は生涯一人の妻しか持ちませんでした、私は「これ」で会社を辞めました(小指)!特集 (その2) 山内一豊


山内一豊

 


山内一豊も側室を持たなかった。

NHK大河ドラマでも、妻千代のあげまんぶりが喧伝されていたこ。

 

妻の千代(見性院(けんしょういん))は、夫に馬を買わせるために大金を差し出した話や、笠の緒文などの様々な逸話で知られ、良妻賢母の見本とされる。とはいえ、この妻との間には、男子が生まれず、実子は与祢姫のみであった。

 

しかし、その与祢姫も、天正地震によって一人娘の与祢姫を失っている。それでも、一豊は側室を持たなかった。

 

ちなみに、天正地震とは、天正131129日(1586118日)に日本の中部で発生した巨大地震で、被害地域の記録が日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ歴史上例のない大地震であった。震源域もマグニチュードもはっきりした定説はない。三河にいた松平家忠の日記によると、地震は亥刻(22時頃)に発生し、翌日の丑刻(2時頃)にも大規模な余震が発生。その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて地震があったことが記載されている。

 

この頃、一豊は、小牧長久手の戦いのあと、豊臣秀次の宿老となり、天正13年(1585年)には若狭国高浜城主、まもなく近江長浜城主(2万石)となった。その秀吉出世の地、長浜城主となったときに、天正地震によって一人娘の与祢姫を失っているのである。

 

一豊は、気を取り直して、領内復興に努め。その間、母も亡くしている。

 

地震の被害にあった地域の復興作業は以前として続いていた。一豊も領内復興に全力を注いだ。この影響もあって、2万石どりになっても台所事情は極めて苦しかったが、一豊は、機転の利く妻と共に、城下の復興に懸命だった。

 
捨て子を拾う

 

ここで、なんと一豊は捨て子を拾ったのであった。その子は、妻千代が与祢姫の墓参りに行った帰り、屋敷の門の近くに、わらのかごに入った状態で捨ててあった赤ん坊であったという

 

この拾子の素性については、一豊が側室に産ませた子とか、家臣の子など、諸説ある。いずれにしても、一人娘を亡くし、母も亡くしたときに、不幸な話しが続いた中で、一筋の希望として豊夫妻も気持ちが安らいだことだろう。

 

この子の名前はのちに湘南 宗化(しょうなん そうけ)となる。豊臣秀次が跡継ぎ問題で切腹した文禄4年(1595年)頃に、養父・一豊の命令で家を離れて出家する。これは、正式な血統ではない彼に家督を継がせるのは、将来、山内家にとって問題になると考えたからだとされる。

 

 その後、京都で修行を積み湘南宗化となり、養父母から土佐国の吸江寺を与えられて住職となる。また、京都妙心寺大通院の第2代住持でもあり、朝廷から紫衣の勅許を受けるほどの高僧となった。土佐慶徳山円明寺(江戸時代に焼失)の中興を行っている。この妙心寺大通院は山内家菩提寺となり、ここに一豊夫婦の京都墓所もある。また、見性院は夫・一豊が慶長10年(1605年)に死去すると、土佐を引き払い湘南宗化のいる妙心寺近くに移り住んで余生を京都で過ごしている。なお、湘南宗化の妙心寺時代の弟子(土佐吸江寺にも同行)に山崎闇斎がいる。

 
養子を迎える

 

 結局、男の子だけでなく、実子に恵まれなかった一豊夫妻は、養子を迎えることとなった。

 

 一豊の同母弟の山内康豊の長男であった山内忠義を、慶長8年(1603年)に養嗣子とした。彼は、徳川家康・徳川秀忠に拝謁し、秀忠より「忠」の偏諱を賜って忠義と名乗った。同10年(1605年)に家督相続したが、年少のため実父康豊の補佐を受けた。慶長15年(1610年)、松平姓を下賜され、従四位下土佐守に叙任された[3]。また、この頃に居城の河内山城の名を高知城と改めた。

 

まとめ

 

 一豊が正室しか妻をもたなかったということが真実だったのだろうか。一般的には、愛妻家であったと言われている。世継ぎが生まれないまま、天正大地震(天正13年(1586))で一人娘を失ったのが、四十一歳。そのとき、妻の千代は二十九歳。

 

子供を産める年齢ではあるものの、それまで娘一人だったというのは、家中の者たちは危ぶんだに違いない。側室の勧めを断っていたのか、あるいは、千代の力が強すぎて、一豊がこそ~りと側室を作り、捨て子と称して育てたのか・・・単に側室の記録が残っていなかったのか。側室を持たないというのは、「常識」に反するし、当主の個人的趣味だから、では片付けられないことだったはずで、記録に残っていない側室がいたかも知れない。

 

一方で、「拾い子」は頭がよかったが、やっぱり、氏素性が判らない子供を嫡子にするわけにはいかないから、出家させたというのも何となく不自然な気がする。乳飲み子の頃から山内一豊の子として育てられたのであれば、別に実の親との縁は切れているのであって、あえて問題にするほどのことなのだろうか。実は、その子は「拾い子」などではなく、誰かの子を引き取ったのではないか・・・その子は、秀次の切腹の時期の前後に出家させられている。その頃、一豊五十歳、千代三十八歳。すでに、世継ぎを産むことは難しい時期に、優れた能力があると見られた「拾い子」で、せっかく養育した子をあえて出家させる必要があるだろうか。

 

いずれにしても、記録上は側室がいなかったことは間違いない。あえて、おしどり夫婦のあげまん女房にまま、そってしておいてもいいのかも知れない。

私は生涯一人の妻しか持ちませんでした、私は「これ」で会社を辞めました(小指)!特集












官兵衛は生涯一人の妻しか持ちませんでした。
戦国時代でも下級武士(という言い方がいいかわかりませんが)や庶民などは一人の妻しか持ちませんでした。金銭的余裕の必要ですからね。
ただ、官兵衛のような武将が一人というのは、非常に珍しいことでした。
珍しい中で、他にいたんではないか?ということで探してみると、
いましたいました。

明智光秀
 
 
 
 



 明智光秀は側室を持たなかったと言われている。

 

妻は『明智軍記』などに記載のある妻木氏が有名。正室の名前は煕子で、次のような逸話が伝わっている。煕子は美濃の妻木勘解由範煕の長女として生まれた。明智光秀と縁談が決まったあと疱瘡にかかり、美しかった顔に痘痕ができてしまった。妻木家にとっては潰したくない縁談だったのか、あばた顔の煕子の代わりに、結婚式の当日に煕子の妹を身代わりとして、直接明智家に向かわせた。しかし、光秀はこれを見抜き、煕子を妻に迎えたという逸話がある。光秀は正室の煕子夫人だけを愛し抜いたと言われる。彼の生真面目さを示しているのだろうか。非常に仲のよい夫婦だったようで、織田信長に仕える以前の貧しい時代に、熙子が女性にとって命の次に大事な黒髪を売って夫の同僚を接待する費用を捻出した話がある。ちなみに、煕子は元々痘痕ができる以前は美女だったようで、娘の細川ガラシャも非常に稀なる美貌だったようだ。

 

ただし、俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたという説もある。また、前室に山岸光信の娘がいたとする説もある。

 

直江兼続
 

 

直江兼続も側室を持たなかった。兼続といえば、NHK大河ドラマ「天地人」(2009年度)で、一躍有名になった武将だ。彼は、謙信急死後の上杉家相続争い(天正6年(1578年)の御館の乱)では、父・兼豊と共に景勝方に就いた。天正9年(1581年)に、景勝の側近である直江信綱が、毛利秀広に殺害される事件が起きる。兼続は景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船(せん)の婿養子となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となった(船にとっては再婚)。この時、信綱とお船の間に生まれたとされる子は出家して高野山に入ったという。


兼続はこの船との間に、12女(長男:直江景明、長女:於松、次女は名が不明)に恵まれた。兼続と船の仲は大変良かったようであり、兼続は生涯、側室を持つことがなかった。


慶長20年(1615年)712日、父に先立って病死。享年2218とも)。戒名は

 
ちなみに、兼続は慶長9年(1604年)本多正信の次男・本多政重を長女於松の婿養子に迎えているが、翌年於松は早世した。長男景明も慶長20年(1615年)に早世した。生来病弱で両眼を病んでいたため、兼続が景明のために五色温泉を開き、長期間の湯治をしたという。婿養子の政重と、景明誕生前に養子であった本庄長房の2人が、共に加賀へと出奔していたため、父・兼続に後継者は残っておらず、母・船の死後、直江家は無嗣断絶となった。

 
このように、婿養子も出奔してしまい、実子は病弱ということになると、やはり、家名断絶のリスクが高くなるのである。

石田三成

 

石田三成も側室を持たなかった。

 

正室皎月院(こうげついん)は三成とのあいだに、三男三女の母(石田重家、石田重成、辰姫ら。後妻であり二男一女の母とも)を設けた。父は宇多頼忠、姉に山手殿(真田昌幸の正室)、兄弟に宇多頼重らがいる。三成からは「うた」と呼ばれていた。当時政権の中心にあった三成の妻であるにもかかわらず、逸話などはほとんど残っていない。

 

関ヶ原の戦いの際には父や三成の家族とともに佐和山城にいた。関ヶ原で三成ら西軍が敗れると、徳川家康は西軍を裏切った小早川秀秋らに佐和山城を攻めさせた。城方も奮戦するものの数に敵わず、宇多頼忠、頼重らは自害し、三成の家臣土田桃雲が皎月院ら婦女を刺殺し天守に火を放ったという。享年は不明。

 

長男の石田重家は、関ヶ原における西軍大敗の知らせを知ると、重臣の津山甚内や乳母らによって密かに京都妙心寺の塔頭寿聖院に入り、住職の伯蒲恵稜によって剃髪して仏門に入った。

 

重家は京都所司代奥平信昌を通じて助命を嘆願し、家康に許される。後に寿聖院の三代目を継いだ。ちなみに、寿聖院は三成が実父正継のために建立した寺である。

 

次男の石田 重成は、西軍が東軍に大敗し居城佐和山城も落城したことを知ると、津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らとともに陸奥国津軽に逃れた。彼の妹、辰姫は津軽信枚に嫁いでいた。後述するが、津軽信枚の父為信は南部家から独立するにあたり、石田三成の取りなしで秀吉から認められたという経緯があり、その恩義を津軽家は感じていたことから匿ったのであろう。その後は彼は杉山源吾を名乗り、津軽氏の保護のもと深味村(現・板柳町)に隠棲する。長男・吉成は弘前藩主津軽信枚の娘を妻として家老職についており、子孫の杉山家は弘前藩重臣として存続した。

 

正室ひとりしかいなかったが、子宝に恵まれた。関ヶ原の戦いで三成自身が敗れて亡くなったとはいえ、本州の北端で家名を存続させている。

 

ということで、妻一人であっても、多くの子供に恵まれていたら、いいんですが、

官兵衛の場合には、長政ひとりでした。実は、熊之助という次男もいますが、彼は朝鮮の役の際に、渡海中に東シナ海の藻屑となってしまいます。

 

では、なぜそんなリスキーな行動をとったのでしょうか?

それは、また次の機会に!

高山右近の履歴書(関ヶ原以降の運命やいかに!?)


■概要


伴天連追放令の発令の際に、見せしめとして所領を没収され追放されました。その後、加賀前田家に寄食する身となり、徳川幕府の禁教令により呂宋(フィリピン)に追放となってしまいます。

 

■秀吉の伴天連追放令の影響

 

 

秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とします。

 

しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行され、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせました。

 

 
 
 


 

 

■加賀前田家に寄食

 

その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後などに隠れ住みますが、天正16年(1588年)に加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴き、そこで15,000石の扶持を受けて暮らしました。

 

 

前田利家自身もキリシタンとなっていたこともあるし(洗礼名  オーギュスチン)、秀吉との親しい中であったこともあり、匿われたのでしょう。

 

 

 

小田原征伐にも前田軍に属して従軍しています。

金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれます。また利家の嫡男・利長にも引き続き庇護を受けます。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれています。

 

 

 

 

 

 



 

■徳川幕府の禁教令

 
秀吉の伴天連追放令は不徹底でしたが、徳川幕府の禁教令は慎重かつ綿密に行われました。

 

家康は関ヶ原の戦い以後、慎重に豊臣政権から徳川幕府に政権の移行を図ります。

豊臣恩顧の大名が一斉に蜂起して反乱を起こすのを心配したためとも言われます。

キリシタン政策についても、慎重でした。関ヶ原の戦いの勝利に貢献した黒田官兵衛が熱心なキリシタンであり、彼が周旋してキリシタン保護に動いたからだとも言われます。

 

しかし、その後幕府の権力基盤を固まっていくなかで、排斥されていきます。


慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去します。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着。

 

イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン人のフィリピン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けます。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の18日(161524日)に息を引き取ってしまいます。享年64


葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われました。

 



 

 

右近の死後、家族は日本への帰国を許されました。

現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」があるそうです。


しかし、どんなに排斥されても、財産を失っても、へこたれない信仰。どこからそんな力が湧いてくるのでしょうか。それが「信仰」の力というものなのでしょう。みんな何かを信じて生きていますが、お金や財産、地位や名誉などをあてにして、必死に守って生きるよりも、そんなの死んだら何一つもっていけない。そんなあてにならないものよりも、魂の問題を解決することを彼は重視したのだろうと思います。

 
私自身はクリスチャンではありませんが、それは至極もっともなことだと思います。