2014年2月3日月曜日

NHK大河ドラマ軍師官兵衛 第5回「死闘の果て」


・豊作じゃ!


堤を築いた故に豊作となったところからはじまりました。

領民から慕われる官兵衛。百姓の子を抱く官兵衛。お殿様ももう間もなくですね、と言われるのも、領民から慕われている証拠。慕っていなければ、領主の子などに興味はないでしょう。

 

・オープニング


官兵衛の赤合子兜ですが、銀色に光っています。本物は単なる朱塗りではなく、下地が銀なので、あのように銀メッキのようなメタリックなんです。単なる朱塗りは如何にレプリカとはいえ、本物とは違いすぎるように気がします。いままで言いませんでした。念のため。

 

・上洛


語源はシナの洛陽という都に上って天下に号令することから、我が国の京都に上って将軍の家臣として天下に号令をかけることを指すようになりました(大ざっぱに言うと)。

実際に上洛を果たしたと言えるのは、

・永正(1508年)に足利義稙を擁して上洛した大内義興

・天文(1546年)に足利義晴を擁して上洛した六角定頼

・永禄(1539年)に上洛した三好長慶

・足利義昭を擁して上洛した織田信長

4人だけ。

大内義興の上洛の大義名分は、旧秩序の回復を目的、すなわち足利幕府の支配を回復させること。しかし、それが完成する前に尼子氏ら反大内勢力の挙兵に阻まれて領国への帰還を余儀なくされています。

六角定頼の場合は、領国が京都の隣の近江であるものの大内義興と同様の名目で入京。幕政にも口入の形で関与。しかし、定頼の没後の六角氏は浅井氏の反抗など国内問題に追われ、三好長慶の上洛を阻止できずに衰退。

三好長慶の目的は、将軍を傀儡としてその影として実権を掌握し、畿内を支配すること。

織田信長は、古い権威ではなく武力によって新しい秩序を作ろうと考え、彼の上洛はその足がかりとして行われました。足利義昭を奉じて上洛したことは、既に一時的な旧秩序の回復ではなく、武力による新秩序の形成と全国支配の手段にすぎませんでした。

ちなみに、戦国大名は皆上洛を目指していたわけではなく(毛利元就、(後)北条氏など)、また、武田信玄の最期の西上作戦も上洛を目指していたかというと疑問が呈されています。

 

・京都の惨状

 軍勢の乱暴狼藉は当たり前。それをえさに徴兵したり、それを目当てに従っている者もいました。しかし、信長はそれを逆手に取り、乱暴狼藉を禁止することで京都の民衆の支持を得た、と描かれています。

実際に、信長は軍勢に乱暴狼藉を働かないように禁制を出しています。

 

・倹約

母里小兵衛は光の侍女お福と口論になったのが、櫛橋家の家風と異なる黒田家の家風。倹約でした。これは、商人であった祖父重隆の教えであったとされています。金はいざというときに遣うために普段は蓄えておく、というものです。

ケチではなく、倹約。ケチな人というのは、嫌われますが、ただやみくもにお金を貯めていて、預金通帳を見てニヤニヤするだけ。遣うべき時、遣うべき先を知らないことを単なるケチというのでしょうね。倹約はそれとは違って、遣うべき時、遣うべき先を誤らないような大局観をもつことをいうのでしょうね。

 

・自分の持ち物を安く払い下げた逸話

官兵衛は、古い物は手道具に至るまで粗末なものを使い、どの品でも長い間持つということをせずに、近習の者に羽織は百五十文、二百文くらいで、足袋などもそれ相応の値段で払い下げていたという記録があります。

伽衆は「わずかな銭のためにお払い下げにならなくとも、拝領を仰せつけにならればよいのに」と言ったところ、官兵衛は笑って「物をもらうのと自分で買うのとどちらが嬉しいか」と聞くと、

皆口を揃えて「人からもらうのも結構ではありますが、自分で買ったほどではありません」と答えると、官兵衛はこう言いました。

「それである。もらった者は喜ぶであろうが、もらわぬ者は恨むであろう。誰にやって誰にやらない、でよいというわけのものではない。しかし、だからといって功のない者にもやれば、功のある者に賞を与えるとき、その甲斐がない。だから、古い物をやりたいと思うときは安く払い下げるのだ。お前たちにしても、わずかの銭を出して買う方が得であろう」
 

・(信長)官職はいらぬ

堺、大津、草津に代官を置くことを、義昭に願う。旧来の権威よりもまず実利をとりましたね。堺は海外貿易で栄え、大津や草津は北国の物産や日本海の物産が北国街道を通って、京都まで通る道でした(他の要素もありますが)ので、これらの代官をすることは、利益に直結しますよね。特に堺は大きかったと思います。尾張の兵は弱いと言われていましたが、それでも戦えたのは経済力があったことも要因の一つでしょう。
 

・義昭の後ろにあった屏風は?


 洛中洛外図屏風でしょうか?ご存知の方、教えてください。
 

・半兵衛に三顧の礼


半兵衛は、織田の家風が肌に合わない。己の野心のために家族に手をかけた信長。美濃斎藤家も親兄弟で争い滅びた。そういうのと自分は相容れないから。

しかし、秀吉は食い下がります。すべては天下布武のため。この乱世を終わらせるため、天下万民のため、力を貸してくだされ!官兵衛殿がうんというまで、わしは一生ここを動かぬ!という言葉に半兵衛は動かされます。個人の欲のためではなく、公益のために働こうとする秀吉に共感したと描かれています。半兵衛は、欲がなくタンパクな人間だったように言われることが多いので仕方ないですね。

稲葉山城を斎藤竜興に返却したり、松壽丸(黒田長政)を匿ったり・・・欲が強ければとてもできる技ではありません。

 
秀吉は、それがしはあなたのような稀代の軍師を召し抱える身分ではございませね、と言っています。この頃の秀吉はまだ城持ちではなく、斎藤氏の旧臣であった竹中半兵衛を召し抱えられるような状況ではなかったということをあらわしているんでしょう。


・青山合戦


官兵衛は軍を率いて姫路城の西の青山の地に兵を伏すと、姫路を攻めようとした赤松軍を奇襲して撤退 させることに成功。金子堅太郎著『黒田如水伝』(大正5年)では赤松軍が5月と6月に2度攻めてきたとされています。


・土器山合戦


赤松には将軍義昭公の上洛を援けるという大義名分を得て多くの兵があつまっているって官兵衛が言っていました。官兵衛が信長に関心を示していますが、この頃は小寺家中で織田方に接近しようとしたものを、政職の命令で上意討ちにしています、官兵衛が。まだ、明確に織田方を表明していたわけではありません。家中はむしろ、反織田方。赤松や別所がいち早く織田方につくことを表明していました。


・いよいよお金を遣うときが来た

 官兵衛は青山合戦のあとに、赤松の逆襲を見越して、正念場を乗り切るため、蓄財を投げ打って兵たちの士気を挙げようとします。それを横で見ていた光は感心していましたね。よしそれなら倹約に励もうと思ったことでしょう。

 このばらまきが功を奏します。小寺家、櫛橋家をはじめとする兵たちは浮足立ってダメでしたから、黒田勢はよく戦ったと思います。

小寺政職は何もせずに逃げ帰ってしまいました。こんな上司あかんやろ・・・(笑)のちに政職は、また日和見をして官兵衛を窮地に陥れます。今回は前科1犯ですね。

官兵衛が、姫路に戻って籠城せずに、野戦で戦うことを選択します。籠城して勝つ見込みがあるためには援軍が来ることが絶対条件でした(城内で需給自足できることも条件でしたが、そんな城は少ないです)。その援軍の見込みはない。小寺政職は援軍を出さないかも知れない。だから、野戦で戦うことを選択したのでしょう。

 

・母里小兵衛の討死

「武兵衛、殿をお守りしろっ!」と叫んで討ち死。武兵衛は、由利友氏を援けに飛び出した栗山善助をたすけるために飛び出して窮地に陥ります。隊伍を組んでいかないと単独で突っ込んでいっても不利な戦いとなってしまいました。

一時は武兵衛に救出されますが、そのとき武兵衛の手を振り払って、余計なことをするなと、意地を張る小兵衛。しかし、武兵衛の手をとって立ち上がります。一人前として認めた瞬間だったのでしょうか。
 

 官兵衛の傳役の小兵衛。官兵衛への忠義を貫いた壮絶な最期でした。

・黒田勢の逆襲

黒田軍は官兵衛が先鋒、職隆が殿(しんがり)という布陣で同夜に小丸山の赤松軍を強襲しています。昼までの戦闘での戦果から黒田軍の反撃を 予想していなかった赤松軍はこの夜襲をうけて混乱し敗走しました。

母里武兵衛も重傷の身を押して先頭を切って赤松軍に斬りかった とされ、奮戦の末に7本の槍に貫かれ壮絶な死を遂げたらしいです (『小寺政職家中記』)。

黒田勢は、敗走する赤松勢を追撃し、夢前川から龍野城の中間 あたりの太子町あたりまで追いかけて、数百人討ち取ったが、 黒田勢の損害も死傷者287人という、ひどい状況であったため、 それ以上の追撃も断念したそうです。
 
 いずれにしても、相当な被害を出して辛勝した黒田家ですが、姫路に帰る足取りは非常に重たいものでした。勝鬨をあげますが、悲しく叫びに聞こえます。

■『黒田家譜』にはどう書かれているかというと

○青山合戦

   播磨館野城主赤松下野守政秀が三千人あまりを率いて、姫路城攻めに向かった。官兵衛はこれを聞き、姫路を出撃して、わざと敵を迎え撃って、姫路の西一里、青山に陣を敷いて、大いに戦い、わずかの兵力で、一戦で、敵の大軍に打ち勝った。勇名はこれ以降に大いに現された。

○土器山(かわらけやま)合戦

また、赤松下野守政秀と、職隆、官兵衛は播磨の土器山にて対陣した。敵方から味方の不意を突いて襲い掛かり急に包囲して攻められた。味方は小勢で危なく見えたので、井手勘右衛門友氏(重隆の末子で、職隆の弟であった)、母里小兵衛(佐々木氏の一族古庵の父)、同武兵衛(小兵衛の子、古庵の弟)たちが数時間防戦したが、勘右衛門友氏、母里小兵衛は討死した。

孝高はその夜、又出兵して、明朝赤松軍と戦った。武兵衛は昨日の戦いで七か所も傷を受けていたが、今日もまた出て戦い、敵数人と戦って討死した。昨日からの戦いで母里氏の一族二十四人が戦死した。

ということです。大河紀行で紹介されていました。

 

・井上之房(ゆきふさ)(九郎右衛門)ってどんな人?


黒田二十四騎の一人って言われていましたよね。ナレーションで。黒田八虎の一人でもあります。要はキーパーソンです。

黒田職隆、孝高、長政、忠之の4代に仕え、小田原征伐、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに参加しています。

どちらかというと文官タイプでした。家中ではあまり武功をあげない之房に対して、不満を持っていた家臣がいましたが、官兵衛は「大丈夫。そのうち役に立つ時が必ず来る」と諭したと言われています。

その期待に特に九州関ヶ原の石垣原の戦いで、応えます。
 
大友氏の家臣・吉弘統幸を討つ武功を挙げました。
石垣原の戦いで討ち取った吉弘統幸は、大友氏の改易後、立花宗茂に仕官するまでの間、之房の元に身を寄せていました。
統幸は豊臣秀吉から「無双の槍使い」と賞讃されて一対の朱柄の槍を許されていた豪傑でしたが、
敵将小田九朗左衛門など3040人を自ら討ち取るも重傷を負い、友の之房に功を挙げるため、自刃して討たれたといわれています
(拙著のブログの九州関ヶ原関連に詳しく書いています)。

主君・長政の筑前国への移封の際に黒崎城(北九州市)を築き、
16000石を領しました。

福岡藩のお家騒動である黒田騒動が起こると栗山利章と結んで倉八正俊を排斥しています。

寛永11年(1634年)死去。享年80歳(長生き!)。墓所は福岡県岡垣町の龍昌寺。

 
・母里太兵衛登場!

この戦で母里一族は24人もの戦死者を出し、後を継ぐものが居なくなってしまったが、功績のある母里家が絶えるのを惜しんだ孝高は曽我一信と母里氏の女との間の子に母里姓を与え名籍を継がせた。 これが母里友信(太兵衛)である。

のちに福島正則から名槍日本号を呑み取った逸話は有名。黒田武士の原型で、写真は福岡にある銅像です(博多駅前、光雲神社(官兵衛・長政が祀られている神社)にはあります。他は要確認)。

ちなみに、母里は「ぼり」か「もり」か。福岡藩で正式には「ぼり」。毛利輝元から発音が超似てるから、毛利って名乗っていいよと言われて、毛利と名乗ってもいたから、「もり」という発音の方が正確かも知れない。


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