2014年2月17日月曜日

NHK大河ドラマ軍師官兵衛 第7回 2014年2月16日(日)(その3)


■後藤又兵衛キタ―――――

 


又兵衛は判官びいきの日本人にとって格好の材料だったのか、様々な虚説が横行しているようです。

 

別所氏の家臣だと言われていますが、実際には、播磨国神崎郡春日山城主の支流であったようです。本家は秀吉の播磨侵攻で早々に滅ぼされています。そのため、父は御着城の小寺政職に仕えましたが没し、伯父とともに黒田官兵衛に仕えました。しかし、官兵衛が荒木村重にとらえられたとき、伯父が黒田家を裏切ったため、又兵衛も追放されてしまいます。

その後、仙石秀久に仕えましたが、目立った活躍もなく、黒田長政が高禄で呼び戻しました。又兵衛もその恩に応えて数々の軍功をあげて活躍しました。

ドラマでは、親を亡くして親戚をたらい回しにあって御着の小寺政職に拾われたが、それをもらい受けたと父職隆が言っています。

明日、ママがいない又兵衛か!ちょっと現実とは異なるようです。母の温もりを知らないということにして、二人目の子ができない光の方が、母性を発揮していく設定にしようとしているのでしょう。同じ母親に育てられた長政と又兵衛が兄弟同然の絆で結ばれていた・・・が、しかし・・・というような形。「が、しかし・・・」の部分は今は言いません。


■毛利方の調略―光の姉、(りき)

力は上月(こうづき)作用城)上月景貞の妻た。永禄3年(1560)、16歳で播磨国守護職・赤松氏の一族である上月十郎景貞に嫁ぎ、その後2人の子を産んでいます。

ドラマで、官兵衛に嫁ぎたくなくて、狂言自殺騒動を起こしたのは記憶に新しいところ。

上月城は播磨西部、備前国との国境沿いの城です。

ドラマで、力は毛利方との境界付近にある上月城は毛利方につかないと立ち行かないと言っていました。

確かに毛利方の宇喜多家と境を接する地域であったため、うかつに織田家についていれば、真っ先にターゲットにされてしまいます。

 

のちに、播磨に下向してきた秀吉が陥しました。そして、信長の命で、尼子勝久、山中鹿之助が上月城に入り、尼子の旧臣を含む、数千の兵が入り、毛利方の抑えとしました。信長は毛利と絶対に手を組まない尼子を利用したんですね。尼子は毛利に滅ぼされていますので毛利とは死力を尽くして戦うことが予想されますから。

 

天正5年(157711月末より、上月城では織田軍と毛利軍との間で約7ヶ月間にわたり数度の攻防戦が繰り返され、天正6年(15782月には毛利方に属した夫の景貞が宇喜多直家の命により城主となります。ですので、ドラマのように最初から上月城主だったように描かれているのは微妙ではありますが、ドラマなので時間の関係もありますし、やむを得ないでしょう。

その後、同年3月下旬に織田方の羽柴(後の豊臣)秀吉らの軍勢による猛攻と、配下の江原兵庫助の謀反により落城。景貞は負傷しながらも城外へ脱出し、わずかな手勢を率いて高倉山の秀吉の本陣を目指し奮戦するも叶わず、千種川沿いの櫛田(兵庫県佐用町櫛田)の山中にて自刃または討死したとされています。

この時、力は2人の子と共に義弟である秀吉軍の官兵衛の陣中を頼って落ち延びます。官兵衛はその悲境を憐み、秀吉の許しを得て3人を黒田家で引き取ることになりました。後に力は出家して妙寿尼と称し、また2人の子のうち、姉は小早川秀秋の家老・平岡石見守に嫁ぎ、弟は元服して名を上月次郎兵衛正好と改めています。

 

ネタばらししてすみません・・・

 

力は黒田家も毛利方につくように、官兵衛に南蛮渡来の秘薬を渡し、両目でウインク。官兵衛夫婦に子供ができないことを知っていて、プレゼント攻撃をしたのでしょうが、そんなことでは、官兵衛は動かされませんでしたし、光の方も姉は姉、私は私と、自分の意見を持って対処しています。このあたりも情にほだされていては、命が無くなる戦国時代ならではかも知れません。

 

■松壽丸の怪我

 

 松壽丸は若様ですから、家臣たちも本気で相手をする者はいなかったでしょう。その物足りなさから、松壽は又兵衛に本気でやれと命じたのでしょう。

又兵衛「若が本気でやれというから・・・男と男の勝負なのです」

松壽は、この野郎、又兵衛なんて無粋なことは言いませんでした。

 ただ、又兵衛は母に守られている松壽丸をみて嫉妬し、どこかへ行方をくらましてしまいます。光の方が自分で探しにいっているということは、侍女たちもかわいげのない又兵衛を探すものはなかったのかも知れません。

 雨ざらしになった又兵衛はひどい熱で、光の方は自ら看病します。このとき、又兵衛は母のぬくもりを感じたことでしょう。

 

(つづく)

NHK大河ドラマ軍師官兵衛 第7回 2014年2月16日(日)(その2)


■浅井朝倉との戦いに勝利―浅井・朝倉の滅亡、金箔の骸骨の盃の逸話


 

 恵瓊の予言通り、浅井朝倉は滅亡しました。

 北近江の浅井家、越前の朝倉家は一時信長を追い詰めますが、姉川の戦いで織田徳川連合軍に敗れ、その2年後に北近江に侵攻した織田勢に対抗して、朝倉勢が援軍にかけつけたものの、織田勢が即座に北近江の城を落したため、朝倉勢はやむなく撤退し、織田勢の追撃を受けて崩れ、越前まで敗走して滅亡しました。

 

ドラマのなかで黒田家の家臣たちが毛利か織田かで議論になっているとき、井上之房は「信長は金箔をしたしゃれこうべで酒を飲んだらしい」と言っていました。

この話は時代劇では度々登場します。出典は織田家の家臣太田牛一が書いた『信長公記』です。これには、天正2年(1574)の正月、内輪の宴席において薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした朝倉義景・浅井久政・長政の首級を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとあります。ただ、これを杯にして酒を飲んだというのは俗説で、史料には見当たりませんし、信長はあまり酒を飲まなかったので、後世の作り話でしょう。

妹の市を嫁がせた長政が裏切ったことに対する怒りや憎しみを形に表したものでしょう。

 

■秀吉、城持ち大名になる

 

 上洛した折にドラマの映像では一兵卒のような身なりでしたが、すでに足軽大将として一団の指揮を任されることもあったので、それくらいの身分になっていたのであって、ただの草履取とか足軽の一兵卒ではなかったことは理解しておいた方がいいでしょう。

 そして、浅井・朝倉との戦いや、畿内での戦いに勝利して、窮地を脱した織田家では、秀吉に北近江の知行地をあてがわれます。秀吉も、荒木村重同様、城持ち大名になりました。

 信長が褒美を与える際に、「お前は日頃城持ちでないことをぼやいているそうだな」、といったん脅しを入れて、秀吉に「お屋形様にお仕えできるだけでも果報者でございまする」、とお世辞を言わせておいてから、褒美を与えるという心理術。叱ってからほめるみたいな感じ。部下をコントロールするテクニックの一つですね(生々しいですが)。村重もこの心理術にはまったと描かれていました。

 

柴田勝家は「猿が大名になったのは古今未曾有の珍事じゃ」とつぶやきます(心の中で思っただけかも知れません)。この下剋上の時代でも、やはり出自・血統を重視するので、どこの馬の骨からもわからない“猿”面冠者が、城持ち大名に出世したというスピード出世はやはり驚きだったのでしょう。

 

■羽柴秀吉を名乗る

 

 秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄8年(1565年)112日付けの書状で、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)らしいので、「秀吉」というのはこのときすでに名乗っていました。

 羽柴については、織田家の重臣丹長秀と田勝家から一字もらって「羽柴」とする説が一般的ですが、「逆説の日本史」で有名な井沢元彦さんは「端柴」、つまり、木切れや木端などのようにとるに足りない者という意味の単語に、「羽柴」の感じを当てたのではないという説を唱えられています。

 いずれにしても、謙遜、ごますりをやって、卑屈になって潰されないように振舞っていたのでしょう。

 

■長浜城

秀吉は浅井氏の旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となります。

おねは、「落ちた城は縁起が悪い」と、新城の築城を提案しています。

 

長浜の統治政策としては、おねがいったように、岐阜の城下を参考に新しい城と城下を作り、民が幸せに暮らせる国造りをやっています。

具体的には、年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まりました。そのことに不満を感じた秀吉は方針を引き締めようとしますが、ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとしたようです。さらに近江国での人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成一家、加藤清正、福島正則などの有望な若者を積極的に登用し、家臣団の拡充を図っています。

 

 秀吉は、「さすがわしの女房じゃ」「すべてはかか様のおかげじゃ」と言って糟糠の妻をほめちぎっています。こんなことを笑顔でさらって言える旦那はさわやかでいいですよね。秀長や蜂須賀小六も、秀吉が城持ちになれたのは俺たちのおかげじゃと言いましたが、秀吉はそれをうまく否定して「すべてはかか様のおかげじゃ」と言っても悪い気はしなかったのではないかと思います。

 

(つづく)

NHK大河ドラマ軍師官兵衛 第7回 2014年2月16日(日)(その1)


■武田信玄の死―信長包囲網(第2次)の崩壊
 
 三河国への遠征で病気を発し(危篤となり)甲斐国に引き揚げる途中、信濃国駒場で亡くなったと言われている。信玄は自分の死により自国に動揺が生じ、他国の侵略を受けることを見越して、三年秘喪を命じています。
 しかし、情報は洩れてしまっていました。信玄が危篤となってからの武田軍の行動が異常に遅くなったことや、すでに武田家の内外に密偵がいたと思われ、死を隠すのは難しかったのでしょう。
信玄は三河国野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止。このため、信玄は長篠城において療養していましたが、近習・一門衆の合議にては4月初旬には遂に甲斐に撤退することが決まります。
412日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去、享年53。臨終の地点は三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされています(小山田信茂宛御宿堅物書状写)。
『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿する事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春(信房)、内藤昌秀(昌豊)らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したといわれています。
信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿しています。
天正3年(1575年)36日には山県昌景が使者となり高野山成慶院に日牌が建立され(「武田家御日牌帳」)、葬儀は『甲陽軍鑑』品51によれば長篠の戦いの直前にあたる412日に恵林寺で弔いが行われており、快川紹喜が大導師を務め葬儀を行ったといわれています(「天正玄公仏事法語」)。快川和尚は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言って亡くなった、あの和尚です。
江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)に描かれる伝説的な人物像が世間に広く浸透し、「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率い、また上杉謙信の良き好敵手としての人物像が形成されています。
 私はなぜ信玄が「神格化」されているのか、しかも江戸時代に。家康をひん死に追い込んだ信玄なのに。と思っています。その理由として考えているのは、徳川家が武田家滅亡後に武田家の旧臣を多く召し抱えたため、間違っても信玄を悪く言うことができなかったことや、信玄が滅茶苦茶強かったからこそ、家康公が敗北を喫したのであって、家康公が弱かったわけではないし、家康公は戦のあとに猛省して天下をとられたのだ・・・という神格化のための信玄の神格化があったのではないかとにらんでいます。
 官兵衛も実は“神格化”されてたりして・・・江戸時代の史料がもとになっている話は眉唾ものです。拙著「キリシタン武将 黒田官兵衛 天の巻(中巻)」ではそのあたりにふれています。
 
■安国寺恵瓊の登場
 
 安国寺恵瓊は、もともと安芸国の守護武田家の出身です。甲斐国の武田家と同族です。ただ、安芸武田氏は毛利家に滅ぼされてしまいました。
“安国寺”は、住持した寺(安芸安国寺(不動院))の名から(大河紀行にて取り上げられていました)。毛利氏の外交僧(武家の対外交渉の任を務めた禅僧)として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となりました。豊臣政権において秀吉によって取り立てられて大名となっています(四国平定により伊予国内で大名となりました)。その後、関ヶ原の戦いで西軍の一隊として参加しますが、吉川広家の妨害にあって本戦に加わることなく敗退し、京都で石田三成、小西行長らとともに斬首されました。
 
天文10年(1541)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると(大河ドラマ「毛利元就」で、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家。その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となります。恵心は毛利隆元と親交のある人物であったため、これがきっかけとなり毛利氏と関係を持つこととなりました。僧としては天正2年(1574)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもついていて、“相当やり手です”、エリートです
実家の仇であるはずの毛利家になぜ仕えたのでしょうか。それは、出家し仏道修行をする中で旧仇を忘れたか、相手にするには多勢に無勢で、毛利家を利用して出世した方がいいと思った、といったところでしょう。
 
ドラマ中では、長政と剣術の稽古をしたりして、黒田家に上手く入り込んでいます。やり手の“営業マン”といった描き方をしています。松壽丸(のちの長政)に正々堂々と勝負せよって言われちゃってます、八百長するなと。大人は負けてあげないといけません(笑)。その調子のよさをみて、光の方も心の中で「調子がいいこと」と思って、若干警戒気味のように私には見えました。
 
 官兵衛は休夢の忠告をきかず、恵瓊に対面します。
そのとき、恵瓊は、自分のことを「毛利を影で操る生臭坊主」と言っていますが、それが恵瓊に対する順当な世間のイメージでしょう。
 なぜ、恵瓊が毛利家の命運を左右する(?)外交官たりえたのでしょうか?
ちなみに恵瓊は出家していました。「出家する」、というのは「家出する」ことではなく、家=俗世間から離れて仏道修行をすることが本義なので、外交僧として活動することも俗世間に関与していることになりそうですが、僧侶がその“俗世間から超越している”という立場ゆえに、敵方の城に乗り込んでも相手方から殺される可能性が低く、戦国時代の命のやり取りをした外交の場では非常に重要な役割を果たしていたようです。
今川家に仕えた太原雪斎和尚も同様に外交僧としても活躍していました。今川、武田、北条の三国同盟を成立させたことも雪斎和尚の尽力があり、同盟の会談は和尚が住持を務めた善徳寺で行われました。
 
天正元年(15731212日付児玉三右衛門・山県越前守・井上春忠宛書状で、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書いており、織田信長の転落と、その家臣の羽柴秀吉の躍進を予想し、結果的にそれが的中したことで恵瓊の慧眼を示す逸話としてよく引き合いに出されます。
これより派生して、『太閤記』における恵瓊は、無名時代の秀吉に「貴方には将来天下を取る相がある」と予言し、後年予言通りに天下人となった秀吉から領地を与えられる役どころとなっています。
ドラマの中で、光の方に向かって、「わたしの予言はそこら辺の占い師より当たります」と言っていたのも、このあたりの“予言”を背景にしていると思われます。
ただ、予言があたるとか、生臭坊主とか、いったイメージは石田三成や小西行長などの悪いイメージと同様、造られたものだと思われますので、話半分にしておいた方がいいと思います。
 
 “織田と毛利どちらが勝つか”、官兵衛の存念を聞きたいという恵瓊に対して、官兵衛は明確な答えを出さずにはぐらかしています。恵瓊が最後に残した台詞は、浅井朝倉も信長に滅ぼされるでしょう、というものでした。果たして、恵瓊の予言通りになります。また、信長に逆らったら、絶対に許してくれないという厳しさを信長は持っているから気をつけよ、という意味なのかも知れません。
 
■ナレーターが変わった
 
 と思っていたら、ナレーターが変わりましたね。
 藤村志保さんは骨折をされて絶対安静となってから十数日間収録を続けられていたそうですので、もしかしたら、このタイミングで降板したのは、これ以上続けることが難しくなったか、あるいは、何か裏の事情でもあったのでしょうか。
 
(つづく)