■浅井朝倉との戦いに勝利―浅井・朝倉の滅亡、金箔の骸骨の盃の逸話
恵瓊の予言通り、浅井朝倉は滅亡しました。
北近江の浅井家、越前の朝倉家は一時信長を追い詰めますが、姉川の戦いで織田徳川連合軍に敗れ、その2年後に北近江に侵攻した織田勢に対抗して、朝倉勢が援軍にかけつけたものの、織田勢が即座に北近江の城を落したため、朝倉勢はやむなく撤退し、織田勢の追撃を受けて崩れ、越前まで敗走して滅亡しました。
ドラマのなかで黒田家の家臣たちが毛利か織田かで議論になっているとき、井上之房は「信長は金箔をしたしゃれこうべで酒を飲んだらしい」と言っていました。
この話は時代劇では度々登場します。出典は織田家の家臣太田牛一が書いた『信長公記』です。これには、天正2年(1574)の正月、内輪の宴席において薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした朝倉義景・浅井久政・長政の首級を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとあります。ただ、これを杯にして酒を飲んだというのは俗説で、史料には見当たりませんし、信長はあまり酒を飲まなかったので、後世の作り話でしょう。
妹の市を嫁がせた長政が裏切ったことに対する怒りや憎しみを形に表したものでしょう。
■秀吉、城持ち大名になる
上洛した折にドラマの映像では一兵卒のような身なりでしたが、すでに足軽大将として一団の指揮を任されることもあったので、それくらいの身分になっていたのであって、ただの草履取とか足軽の一兵卒ではなかったことは理解しておいた方がいいでしょう。
そして、浅井・朝倉との戦いや、畿内での戦いに勝利して、窮地を脱した織田家では、秀吉に北近江の知行地をあてがわれます。秀吉も、荒木村重同様、城持ち大名になりました。
信長が褒美を与える際に、「お前は日頃城持ちでないことをぼやいているそうだな」、といったん脅しを入れて、秀吉に「お屋形様にお仕えできるだけでも果報者でございまする」、とお世辞を言わせておいてから、褒美を与えるという心理術。叱ってからほめるみたいな感じ。部下をコントロールするテクニックの一つですね(生々しいですが)。村重もこの心理術にはまったと描かれていました。
柴田勝家は「猿が大名になったのは古今未曾有の珍事じゃ」とつぶやきます(心の中で思っただけかも知れません)。この下剋上の時代でも、やはり出自・血統を重視するので、どこの馬の骨からもわからない“猿”面冠者が、城持ち大名に出世したというスピード出世はやはり驚きだったのでしょう。
■羽柴秀吉を名乗る
秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄8年(1565年)11月2日付けの書状で、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)らしいので、「秀吉」というのはこのときすでに名乗っていました。
羽柴については、織田家の重臣丹羽長秀と柴田勝家から一字もらって「羽柴」とする説が一般的ですが、「逆説の日本史」で有名な井沢元彦さんは「端柴」、つまり、木切れや木端などのようにとるに足りない者という意味の単語に、「羽柴」の感じを当てたのではないという説を唱えられています。
いずれにしても、謙遜、ごますりをやって、卑屈になって潰されないように振舞っていたのでしょう。
■長浜城
秀吉は浅井氏の旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となります。
おねは、「落ちた城は縁起が悪い」と、新城の築城を提案しています。
長浜の統治政策としては、おねがいったように、岐阜の城下を参考に新しい城と城下を作り、民が幸せに暮らせる国造りをやっています。
具体的には、年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まりました。そのことに不満を感じた秀吉は方針を引き締めようとしますが、ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとしたようです。さらに近江国での人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成一家、加藤清正、福島正則などの有望な若者を積極的に登用し、家臣団の拡充を図っています。
秀吉は、「さすがわしの女房じゃ」「すべてはかか様のおかげじゃ」と言って糟糠の妻をほめちぎっています。こんなことを笑顔でさらって言える旦那はさわやかでいいですよね。秀長や蜂須賀小六も、秀吉が城持ちになれたのは俺たちのおかげじゃと言いましたが、秀吉はそれをうまく否定して「すべてはかか様のおかげじゃ」と言っても悪い気はしなかったのではないかと思います。
(つづく)
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