2014年2月17日月曜日

NHK大河ドラマ軍師官兵衛 第7回 2014年2月16日(日)(その1)


■武田信玄の死―信長包囲網(第2次)の崩壊
 
 三河国への遠征で病気を発し(危篤となり)甲斐国に引き揚げる途中、信濃国駒場で亡くなったと言われている。信玄は自分の死により自国に動揺が生じ、他国の侵略を受けることを見越して、三年秘喪を命じています。
 しかし、情報は洩れてしまっていました。信玄が危篤となってからの武田軍の行動が異常に遅くなったことや、すでに武田家の内外に密偵がいたと思われ、死を隠すのは難しかったのでしょう。
信玄は三河国野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止。このため、信玄は長篠城において療養していましたが、近習・一門衆の合議にては4月初旬には遂に甲斐に撤退することが決まります。
412日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去、享年53。臨終の地点は三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされています(小山田信茂宛御宿堅物書状写)。
『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿する事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春(信房)、内藤昌秀(昌豊)らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したといわれています。
信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿しています。
天正3年(1575年)36日には山県昌景が使者となり高野山成慶院に日牌が建立され(「武田家御日牌帳」)、葬儀は『甲陽軍鑑』品51によれば長篠の戦いの直前にあたる412日に恵林寺で弔いが行われており、快川紹喜が大導師を務め葬儀を行ったといわれています(「天正玄公仏事法語」)。快川和尚は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言って亡くなった、あの和尚です。
江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)に描かれる伝説的な人物像が世間に広く浸透し、「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率い、また上杉謙信の良き好敵手としての人物像が形成されています。
 私はなぜ信玄が「神格化」されているのか、しかも江戸時代に。家康をひん死に追い込んだ信玄なのに。と思っています。その理由として考えているのは、徳川家が武田家滅亡後に武田家の旧臣を多く召し抱えたため、間違っても信玄を悪く言うことができなかったことや、信玄が滅茶苦茶強かったからこそ、家康公が敗北を喫したのであって、家康公が弱かったわけではないし、家康公は戦のあとに猛省して天下をとられたのだ・・・という神格化のための信玄の神格化があったのではないかとにらんでいます。
 官兵衛も実は“神格化”されてたりして・・・江戸時代の史料がもとになっている話は眉唾ものです。拙著「キリシタン武将 黒田官兵衛 天の巻(中巻)」ではそのあたりにふれています。
 
■安国寺恵瓊の登場
 
 安国寺恵瓊は、もともと安芸国の守護武田家の出身です。甲斐国の武田家と同族です。ただ、安芸武田氏は毛利家に滅ぼされてしまいました。
“安国寺”は、住持した寺(安芸安国寺(不動院))の名から(大河紀行にて取り上げられていました)。毛利氏の外交僧(武家の対外交渉の任を務めた禅僧)として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となりました。豊臣政権において秀吉によって取り立てられて大名となっています(四国平定により伊予国内で大名となりました)。その後、関ヶ原の戦いで西軍の一隊として参加しますが、吉川広家の妨害にあって本戦に加わることなく敗退し、京都で石田三成、小西行長らとともに斬首されました。
 
天文10年(1541)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると(大河ドラマ「毛利元就」で、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家。その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となります。恵心は毛利隆元と親交のある人物であったため、これがきっかけとなり毛利氏と関係を持つこととなりました。僧としては天正2年(1574)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもついていて、“相当やり手です”、エリートです
実家の仇であるはずの毛利家になぜ仕えたのでしょうか。それは、出家し仏道修行をする中で旧仇を忘れたか、相手にするには多勢に無勢で、毛利家を利用して出世した方がいいと思った、といったところでしょう。
 
ドラマ中では、長政と剣術の稽古をしたりして、黒田家に上手く入り込んでいます。やり手の“営業マン”といった描き方をしています。松壽丸(のちの長政)に正々堂々と勝負せよって言われちゃってます、八百長するなと。大人は負けてあげないといけません(笑)。その調子のよさをみて、光の方も心の中で「調子がいいこと」と思って、若干警戒気味のように私には見えました。
 
 官兵衛は休夢の忠告をきかず、恵瓊に対面します。
そのとき、恵瓊は、自分のことを「毛利を影で操る生臭坊主」と言っていますが、それが恵瓊に対する順当な世間のイメージでしょう。
 なぜ、恵瓊が毛利家の命運を左右する(?)外交官たりえたのでしょうか?
ちなみに恵瓊は出家していました。「出家する」、というのは「家出する」ことではなく、家=俗世間から離れて仏道修行をすることが本義なので、外交僧として活動することも俗世間に関与していることになりそうですが、僧侶がその“俗世間から超越している”という立場ゆえに、敵方の城に乗り込んでも相手方から殺される可能性が低く、戦国時代の命のやり取りをした外交の場では非常に重要な役割を果たしていたようです。
今川家に仕えた太原雪斎和尚も同様に外交僧としても活躍していました。今川、武田、北条の三国同盟を成立させたことも雪斎和尚の尽力があり、同盟の会談は和尚が住持を務めた善徳寺で行われました。
 
天正元年(15731212日付児玉三右衛門・山県越前守・井上春忠宛書状で、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書いており、織田信長の転落と、その家臣の羽柴秀吉の躍進を予想し、結果的にそれが的中したことで恵瓊の慧眼を示す逸話としてよく引き合いに出されます。
これより派生して、『太閤記』における恵瓊は、無名時代の秀吉に「貴方には将来天下を取る相がある」と予言し、後年予言通りに天下人となった秀吉から領地を与えられる役どころとなっています。
ドラマの中で、光の方に向かって、「わたしの予言はそこら辺の占い師より当たります」と言っていたのも、このあたりの“予言”を背景にしていると思われます。
ただ、予言があたるとか、生臭坊主とか、いったイメージは石田三成や小西行長などの悪いイメージと同様、造られたものだと思われますので、話半分にしておいた方がいいと思います。
 
 “織田と毛利どちらが勝つか”、官兵衛の存念を聞きたいという恵瓊に対して、官兵衛は明確な答えを出さずにはぐらかしています。恵瓊が最後に残した台詞は、浅井朝倉も信長に滅ぼされるでしょう、というものでした。果たして、恵瓊の予言通りになります。また、信長に逆らったら、絶対に許してくれないという厳しさを信長は持っているから気をつけよ、という意味なのかも知れません。
 
■ナレーターが変わった
 
 と思っていたら、ナレーターが変わりましたね。
 藤村志保さんは骨折をされて絶対安静となってから十数日間収録を続けられていたそうですので、もしかしたら、このタイミングで降板したのは、これ以上続けることが難しくなったか、あるいは、何か裏の事情でもあったのでしょうか。
 
(つづく)

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