2013年12月24日火曜日

秀吉の履歴書(秀吉とイエズス会の蜜月→いきなり追放!落差はげしくない?)


■秀吉とイエズス会の蜜月

 

秀吉は、キリシタンに対し、厚意を示していたようです。

 
 

 

一五八四年「日本年報」には、

「今羽柴秀吉殿・・・(中略)・・・はただデウスの教えに反対しないばかりではなく、大いに我が聖教を尊び、坊主の欺瞞の宗旨よりも真なるものと認め、キリシタンに信頼し、側近にある大身たちの子息がキリシタンになることと聞いて喜んでいる。ジュスト右近殿(高山右近 引用者注)については、毎日城中で語り、彼を称賛し、その模範的生活に驚嘆し、青年でかくも欲を制するものは珍しいと考えている」

とあります。

 

秀吉の大奥にさえ幾人かのキリシタンがいたくらいでした。

しかも、彼らは公然と信仰を続け、秀吉はこれを信用し重んじていたようで、ヨーロッパ風の名前を付けて呼び合っていたようです。

 

天正十四年二月十三日(一五八六年四月一日)に、秀吉自ら信長の一子、ならびに諸将を同伴して、突然大坂の天主堂を訪ねて、パードレと気軽に談話を交え、

 

「予は、おぬしが教えについて語ったところことごとく満足し、キリシタンとなるについて、大勢の妻をもつことを許さぬ戒律以外には困難を感ぜぬ、もしこの点を緩くすれば、予もまたキリシタンとなるであろう」

と秀吉一流の冗談を飛ばし、出された砂糖菓子をむしゃむしゃ食べたと言われます。

 

イエズス会の副管区長コエリョは、北政所を通じ、以下のことを秀吉に願い出ます。

 

1、   全領内で自由にデウスの教えを説き、一切妨害を受けない。

 

2、   我が駐在所(カーサ)及び天主堂に対して、坊主や僧院の一般に課された義務を免除し、兵士の宿泊所とすることを免ずる。

 

3、   外国人としての一切の義務を免除する。

 

以上三箇条の特許状を願い出たところ、

秀吉は直ちにこれを容認し、特許状二通に自ら署名して下げ渡しました。



 

 

その後、まもなく(天正十四年三月十五日(一五八六年五月三日)、コエリョは、大坂城の秀吉を訪問して異常な歓待を受けています。

 

大坂築城には、三十余ヶ国の大名を動員して工事を進め、天正十二年八月に秀吉は大坂城に移りました。

 

コエリョはパードレ四名(コエリョ、フロイス、オルガンチノ、セスペデス)など合わせて三十余人の同行を引き連れて長崎を発し、キリシタンの安威了佐、キリシタン嫌いの施薬院全宗両人の案内で登城しました。

高山右近がキリシタンだったため取り持ち役を命じられ、フロイスが通訳となり、秀吉に面会しています。

 

秀吉がパードレから近い場所に座って、彼らと話し、その心中を話したことに人々は驚いた、とあります(当時は、そうとう離れた場所に座っており、直接言葉を交わすことは珍しいことでした)。

 

日本在住のパードレたちが教えを説いて弘める以外に他意がないことを称賛し、

 

「天下を平定したら、美濃守(秀長)に譲り、自分は朝鮮、シナ征服を考えている。

そのために二千艘の船を作る予定であるが、パードレたちに望むところは、十分に武装した大帆船二隻を入手する斡旋をしてもらいたい。

対価は望みに任す。

いったんシナ人が帰服してしまえば、別に野心はなく、その時になって各地に聖堂をたて、皆がキリシタンになることを命じて日本に帰る。

 

また日本の半分、あるいは大部分をキリシタンとすべきだ」とさえ言っています。

 

ついで、他の随行者たちを呼び寄せ、城内をくまなく案内させ、ある場所では、秀吉みずから案内に立って、天守閣に登って工事について説明したりした。最後に酒肴を供し、みずからパードレやイルマンらにサービスをした。

これは、秀吉がキリシタンに厚意を寄せていることを示していました。

 

一転して、伴天連追放令の発令

 

しかし、このことがあってわずか一年後に、伴天連追放令が下ります。

 

その変化は急転直下という感じでした。

 

一説には、キリシタンの危険性を彼なりに感じていたが、時期尚早であると判断して、

九州平定が成功し、天下取りの確信を得るまでは黙っていた、とする見方もあります。




 

 

熱心なキリシタンとして、大名や家臣たちへの布教をし、官兵衛や小西行長らも、彼の勧誘がきっかけでキリシタンになります。それだけではなく、神社仏閣を破壊するラジカルな行動をとったことが、反キリスト教勢力(秀吉の側近の施薬院全宗ら)の反感を買ったのでしょう。

 

追放令によって、キリシタンであった官兵衛の運命も暗転していくことになります。

そういう意味で非常に重要な事件だったと私は思います。

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