2014年1月9日木曜日

大河ドラマ「軍師官兵衛」第1回の気づき(その2) 2014年1月5日


■傅役(もりやく)の母里小兵衛、小姓の武兵衛の今後

 

 傅役になるというのは、名誉なことであり、かつ、家中での地位向上にもなりました。

 主君の子の養育を任されるというのは、非常に信頼されている証でもあり、さらに、その子が成長して家督を継いだら、その家老的地位に就くことになりますから、非常にプラスなことでした。

 しかし、その子が命の危険にあったときには身を挺して守り、一命をもって諫めるようなこともありました。

 

例)平手政秀(織田信長)

 
 信長が誕生すると傅役となり、信長公の初陣を助け、美濃の斎藤道三との和議&濃姫との婚姻を取りまとめましたが、信長公の奇行を諌め諭し続けた末、父信秀公死去後、自刃してしまいます。享年62。信長の奇行を諌めるための自刃であったという忠臣としての美談は有名ですが、そうではなかったとする説もあるようです。

 

 さて、この二人が今後どうなるのか、それは、実際にドラマの中で確認してみましょう。

ちなみに、母里太兵衛(黒田武士「酒は呑め呑め~呑むならば・・・」は、この一族です。
また、母里氏は職隆の側室でもあります。


 







■小兵衛にはいつも苦労をかけますね

 

 

 母いわが、傅役の母里小兵衛に優しく声をかけます。個人的感想ですが、上司の奥さんにこんな言葉をかけられたら、仕事頑張っちゃいますよね。しかも、社交辞令のような感じではなく、その人の本心から言われた言葉だったらなおさら、ではないでしょうか。

 また、その言葉で恐縮する母里小兵衛だったからこそ、信頼され、傅役を仰せつかったのかも知れません。万吉が龍野城で捕縛されたことを知り、責任を感じて切腹しようとします。ドラマではその場面は直接描かれていませんでしたが、小兵衛を止めた‘いわ’は何と言って止めたのでしょうかね。


 


■なぜ、黒田主従は強かったか

 

野武士が攻めてきたときに、職隆や休夢(職隆の弟)たちが姫路城から出撃します。そして、13騎を討ち取ったことを、小寺政職に報告したとき、家老の江田善右衛門が、「黒田主従は強いというが、口ほどにもありませんな」と、黒田主従が強いという認識があったことがわかります。

黒田主従がなぜ強かったのか。強い組織ってどうしたらできるでしょうか。

その一つは信頼でしょう。チームの一人一人が信頼し合っていること。皆のために本気になれる組織が強い組織ではないでしょうか(もちろんスキルも必要ですが)。では、その信頼はどこから生まれてくるのか。その一つは、トップの愛から、だろうと思います。私事で恐縮ですが、仕事柄いろいろな会社を見てきて、行く先の会社の雰囲気ってトップの人の人柄が与える影響が大きいと感じています。トップの雰囲気が下に伝わっていきますし、それに共鳴する人が集まり、残っていっているように気がします。

 

職隆について、『黒田家譜』職隆記には、次のように書かれています。

 

「黒田美濃守職隆は、・・・(中略)・・・このときは乱世であったため、近隣の地侍と領地境界を争い、しばしば小競り合いを繰り返していたが、職隆は思慮深くて武勇があったため、自然と近隣の地侍たちは、職隆を主君のように仰いで帰順した。
 
 
 

ここで赤松の家臣小寺藤兵衛政職(のちに加賀守)は、西播磨で勢力を誇っていた。御着城を居城としていた。職隆はその家臣として手柄を多く立てた。政職はその忠義や武勇に感心して厚遇した。明石城主明石宗和の息女を養子として、職隆の妻とした。そのうえ、軍事権を貸し与え、姫路城を守らせた。小寺の姓と一字(職 引用者注)を与えられ、小寺職隆と名乗った。
 

職隆の家は、当初はとても貧しかったが、のちに、大いに裕福になった。生まれつき慈愛が深く、人に恵みを与え、61歳以上で妻がいない者)、寡(61歳以上で夫がいない者)、孤(16歳以下で父がいない者)、独(61歳以上で子がいない者)の窮民の飢えや寒さを救うため、大きな長屋を二つ作り、飢えた者たちを多く集め、道で路上生活者を見つけると、お前はわたしのところへ来るがよい、扶養すると言ったので、飢えた人たちが多く集まってきて、一人ひとりに食事を与え、衣服を着せて養っていた
 

後に、羽柴筑前守秀吉が、姫路にいた時に、職隆は生まれつき真心があることを知り、とても厚遇した。正月の新年のあいさつに、配下の者たちに盃を与えるのにも、最初に職隆に与えた。
 
 
 職隆が年老いて隠居したが、秀吉の出陣の間は城の留守居役をさせた。その人となりは、忠義があり信頼に足るものであったからであった。・・・(中略)・・・
 
 
 
こういうことが子孫繁栄の基礎なのだろう。総じて天道は善には幸いし、悪には禍をなされるように善悪応報があることは、このことによって理解できる。善を積む家にはその余慶があると。聖人が易経に説いているのも、このようなことであった。その人となりが温和で慈愛が深く、正直で義を守る心が強かった。品性が人に優れ善行が多かった。特に軍功が多く勇名をはせた。」(傍線 引用者)
 

  とあります。人に親切にして愛を施し、真心で接し、信頼を勝ち取って戦国の世を生き抜いた職隆の姿が描かれています。マムシの道三、宇喜多直家のように、策略でのし上がったというのとは対照的です。マネジメントのやり方も人それぞれかと思いますし、部下の性格にも寄ると思いますが、やはり愛がないと人はついてこないし、メンバーが信頼し合う強い組織にはならないかも知れません。私自身はそういう組織の方が好きです。

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