■全盛期
永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに及んでいた(他に近江・伊賀・河内・若狭などにも影響力を持っていた)。
また、従四位下修理大夫に叙任され、塗輿や桐紋の使用も帝から許可され得意満面であった。義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎えた。
■凋落の晩年
・一族を支える弟たちの死
讃岐を固めていた十河一存(“鬼十河”の異名を持つ)が病死(1561年)。
本国阿波を固めていた三好義賢が翌年戦死(1562年)。
水軍を率いた淡路の安宅冬康を自らの手で殺してしまった(1564年)。
・敵対勢力が盛り返す
畠山氏や根来寺衆徒が力を盛り返した
(十河一存の死で和泉方面の抑えが利かなくなったことや、畠山氏が近江の六角氏を結んで京都を脅かしたことから)。
また、将軍義輝も裏ではこれらを応援していた。
・嫡男義興の死
病にかかり22歳の若さで死去(1563年)。
・爆弾、松永久秀
末弟十河一存、嫡男義興は久秀が毒殺したという噂がある。十河一存は、有馬温泉にて松永久秀と湯治中に突然死。享年30。
また、安宅冬康は逆心ありと長慶に讒言したという話がある。
・養子に迎えた義継(十河一存の子)が若年で不安。
■死
1564年7月、亡くなった。享年43歳。
1561年頃から病気がちであったともいわれ、嫡男義興の死に深く落胆し、弟安宅冬康の死以降、愁嘆することが尋常でなく病がひどくなったといい、また晩年は連歌三昧の日々を送ったという。
目まぐるしく変わる中央の政治抗争が長慶の心を蝕んでいたともいい、あるいは、松永久秀や敵対勢力と内通した者が徐々に毒を盛っていったのかも知れない。
■三好家のその後
義継が若年のため松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見役として三好氏を支えたが、将軍足利義輝の暗殺(永禄の変)し、やがて1565年から1568年までの3年間内紛を起こした末に衰退、新たに台頭した織田信長に政権を奪われていった。
1568年、信長の上洛に反発し抵抗するも相次いで敗退し、三人衆の勢力は衰え、元亀年間には岩成友通が戦死し、他の2人も消息不明な状態となり、畿内における三好氏の勢力の衰退と前後して三人衆としての活動は完全に途絶えた。三好政康は後に豊臣氏の家臣として復帰し大坂の陣に参加、戦死したとする説がある。
将軍暗殺や信長が上洛したときに三好三人衆が逃げ去ったことは、NHK大河ドラマ軍師官兵衛でも描かれていました。
■ちょっとした比較
信長は京都で続いた戦乱を収拾し、乱暴狼藉を厳禁して、京都の町衆の支持を得た。
優秀な嫡男の死によって失意の晩年を送った武将としては、たとえば、長曾我部元親がいる。嫡男信親は容姿端麗、長身のイケメンであったと言われているが(元親もイケメンというか、甘いマスクだったようだ)、官兵衛たちが軍奉行を務めた秀吉の九州平定戦で戦死している(戸次川の戦い。軍目付の仙石秀久の無謀な突出により島津軍の待ち伏せ戦法にはまり戦死したといわれている)。元親が酒浸りで怒りっぽくなったと言われている。その後、長曾我部家の運命は暗転することになった。
官兵衛は、その意味では人遣いがうまかったのか、あるいは、献身的な一族に恵まれていたのか、一族や家臣の内紛の話は聞かない。組織にはつきものの派閥争いだが、それをうまく操縦して強い組織を作っていくのは、非常に難しいことだろうし、それができるかどうかはトップにかかっているのかも知れない。
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