善助「連れてまいりました!」
太兵衛「太兵衛にございまする!オリーブオイルで槍遣いが非常に滑らかにござりまする」
・本名:母里 友信
・母里の読みは「もり」(黒田家中での正式な読みは「ぼり」)
・播磨国妻鹿の国人曽我一信の子として誕生。弟に野村祐勝がいる。土器山合戦で一族24人が討死した母里一族を太兵衛が継いだ。曽我一信と母里氏の女との間の子であったことから母里姓を与えられ、母里太兵衛となった。
・通称は、太兵衛(たへえ、たひょうえ)、幼名は万助。但馬守を称す。
・槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めた。
・黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人。
・「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも知られる(日本号は福岡市博物館に展示されています)。
・一時期「毛利」と改姓(毛利輝元から名乗りを許されたため)。
・妻は大友宗麟の娘。
・初陣:天正元年(1573)の印南野合戦(播磨東部の別所勢らとの戦い)
・天正15年(1587年)正月より開始された九州征伐では、豊前宇留津城攻めで一番乗りの戦功を挙げ、孝高の豊前入国後は6,000石を与えられた。
・文禄・慶長の役にも従軍。
・関ヶ原の戦いでは九州で官兵衛に従って戦い大友義統を降伏させた。
・筑前加増移封後、筑前鷹取城1万8,000石を拝領した。
・生涯に挙げた首級は実に76と家中で一番であった。
■名槍日本号
・元来は皇室所有物(御物)で、正三位の位を賜ったという伝承から、「槍に三位の位あり」と謳われた。
・正親町天皇→足利義昭→信長→秀吉→福島正則と渡った。
・前述の逸話を経て黒田如水の家臣である母里友信が福島正則より貰い受けた。
・朝鮮出兵の際に自身の危機を救った礼として友信より後藤基次に贈られた。
・官兵衛の死後、後藤基次が黒田家を出奔する際に野村家(基次の娘が母里友信の弟、野村祐勝の長男祐直に嫁いだため)に渡されて、以後長く伝えられた。
・大正時代に同家を離れたが、旧福岡藩士出身の安川敬一郎(東証一部上場の安川電機の創始者です!)と頭山満(明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥。官兵衛の墓碑銘がある崇福寺に墓があります!)の二人が、日本号は福岡の地を離れるべきではない、と大金で購入して、旧藩主黒田家に贈与した。
・その後、黒田家より福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館の所蔵品として展示されている。
・その他、広島城には近年になって製作された写し(レプリカ)が展示されている。
安川敬一郎や頭山満が大金で購入してくれた事実を知ったとき、私は泣いた。
そういった先人の方々の努力のおかげで、今身近に見ることができる。先の大戦で多くの日本の美術品は焼失ないし海外に流出してしまっていることを考えると、本当にそのような先人の努力に想いをいたし、感謝しなければいけないと思った次第です。
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