小早川秀秋って、関ヶ原の戦いの勝敗を決定づけた武将として、ドラマでは必ず出てきますよね。しかも、”裏切り者”、”ひ弱な武将”扱い。
本当にそうだったんでしょうかね。
■関ヶ原に至るまで
秀吉夫妻に養われた秀秋は、当代随一の文化人として知られる聖護院道澄について手習いや和歌の道に励み、蹴鞠の手の舞い方、足の踏み方も一度に会得するほどの利発な少年として期待されていました。しかし、秀頼が誕生したあと、小早川家に養子に入り、秀吉の後継者から外れることとなります。
朝鮮の役では総大将を務める破格の待遇を受けます(慶長の役。官兵衛が軍監として補佐しています)。
秀吉の死後はご存知のように、関ヶ原の戦い前夜には、東西両陣営から凄まじいほどの調略の応酬がありました。黒田長政は秀秋を調略したと言われています。
■戦功第一で加増
関ヶ原戦後の論功行賞では、筑前・筑後から、備前と美作と備中東半国にまたがる、播磨の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山藩55万石に加増・移封されました。
しかし、間もなく家老の稲葉正成が出奔し、同じく家老の杉原重政が村山越中守に斬殺されるなどの事件も起きています。
秀秋はいつのころよりか酒を嗜むようになり、それも日を追って盃の数が多くなり、養母の北政所をいたく悩ませたと言われています。
そして、秀秋自身も関ヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602年)に早世(享年21)。
■鷹狩り直後の急死
死の三日前、鷹狩り出かけた秀秋は日が暮れて帰城したが、気分が悪いと訴えたまま臥してしまった。一度気を取り戻したが、翌朝には死去したと伝えられています。
■死因についての謎
秀秋の死去した三日前の十五日に兄の木下俊定も急死しているので、その死因には不可解な点がないとはいえないようです。
ちなみに、兄の木下俊定は丹波国内に1万石を領していましたが、関ヶ原の戦いで西軍に与して大津城の戦いに参加したために戦後改易され、弟の秀秋に寄食して備前国内で5000石を与えられています。慶長7年10月15日、俊定と弟の某が同日同所で死亡したという記述が神龍院梵舜の『梵舜日記』にあります。
あるいは、関ヶ原の戦いで敗北した石田三成のたたりだというのが、世評です。
この早世に関して、大谷吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹しており、この祟りによって狂乱して死亡に至ったという説もあります。
しかし、祟りなんて本当にあるんでしょうか。
この手の話には、常に眉につばしてみる必要があります。
誰が利益を得るかという視点が犯人を見つける一つの方法でしょう。
江戸時代に入り、”武士道”が強調され、”寝返り”をしたことになっている秀秋を悪者扱いして、お前たちも”裏切り”なんてしたら、世間の非難を浴びるよ、不名誉なことになるよ、だから、正直に主人に忠義を尽くしな!なんていうマインドコントロールのためには、格好の材料だったんでしょうね。
秀秋の死後、小早川家は無嗣断絶により改易された。これは徳川政権初の無嗣改易でした。
ということは、豊臣家と縁つづきの外様大名を取り潰すことは幕府の権力基盤を固めることになりますから、幕府がチャンスとみて取り潰した、ということなのでしょう。
宇喜多騒動も家康の陰謀だったという説があるので、同じ岡山で二度目、ということになるでしょう。
■要らなくなったら棄てる
バカ殿みたいに描かれることが多いですが、まだ21歳ですよ!
経験も不足しているし、隆景の薫陶を受けていればそれなりの武将には育ったかも知れません。
しかし、老獪な大人たちに利用されて、要らなくなったら捨てられた感じがしてならないのは、私だけだろうか。40~50万石の大大名だった小早川家を利用し尽くし、要らなくなったら危ないから消す!みたいな話でしょう。
もちろん本人の良心の呵責もあったかも知れません。若く、苦労もしていない、世間知らずな貴公子には、“裏切り者”という世評は何よりも嫌で、酒浸りになったのでしょうか。その酒に毒が仕込まれていたら・・・
■官兵衛
ちなみに、官兵衛は秀秋が亡くなったのと同じ年代に家督を継いでいます(21歳頃)。
その頃の官兵衛は確かに奇襲戦法で多数の敵を撃退したりしていますが、若さもあったのか、弁舌の巧さに頼り、荒木村重に捕らえられるという事件に見舞われています。
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