この人、誰?と思われた方もおられると思うが、よく大坂の陣で悲劇の姫として描かれる千姫の夫である。大坂の陣のあとに千姫と結婚した。彼は、側室をおいていない。それは、将軍家への気遣いだったのかも知れない。
慶長元年(一五九六)、後の姫路藩主・本多忠政の長男として生まれる。祖父は本多忠勝。大坂夏の陣では忠政と共に出陣し、慶長十九年(一六一五)の道明寺の戦いにも参加して敵の首級を挙げている。戦後の元和二年(一六一六)、徳川家康の孫娘で豊臣秀頼の正室だった千姫と婚姻した。家康が臨終の際に、政略結婚の犠牲とした千姫のためを考えて、忠刻やその生母に婚姻を命じたとする逸話もある。
この輿入れのとき、「千姫事件」が起きている。この事件は、元和元年(1615年)の大坂夏の陣による大坂城落城の際に、坂崎直盛(宇喜多詮家、宇喜多秀家の従兄弟)は、千姫を大坂城から救出した(実際には、豊臣方の武将、堀内氏久が直盛の陣まで護送した後、直盛が秀忠の元へ送り届けた、とする説が有力)。直盛は火傷を負いながら千姫を救出したにもかかわらず、その火傷を見た千姫に拒絶されたことで、千姫奪取計画を立てる事件を起こしたと言われている(ただし火傷に関しては俗説とする説も有力)。
家康より千姫の縁組を依頼された直盛が、公家の間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに、突然、本多忠刻との縁組が決まったため、面目を潰された直盛が千姫奪回計画を立てたと言われる。しかし、計画は幕府に露見し、直盛は切腹したとも、斬首されたとも言われる。
まあ、筆者の推測では、大坂の陣で豊臣家は滅亡したことを契機に、宇喜多家出身の直盛を、しばらく生かしていたが、はめるワナと仕掛けたんだろうと思う。直盛に千姫の身の振り方を依頼すること自体が不自然だし(秀頼との政略結婚の道具にしてしまったことを悔いた家康が、自ら相手を選ぶのが自然)、突然縁組が勝手に決まるのも不自然だ。きな臭さを感じる。直盛が亡くなったあと、直盛の所領だった津和野藩に近い、安芸の福島正則が難癖つけられて改易になっている。
千姫との間には、結婚して二年後に元和四年(一六一八)に長女・勝姫(池田光政室)、元和五年(一六一九)には長男・幸千代が生まれている。夫婦仲はよかったのか知れない。しかし、元和七年(一六二一)に幸千代が三歳で早世し、忠刻も寛永三年(××)に結核のため亡くなってしまった(享年三十一)。
なお、宮本三木之助(二十三歳)は忠刻の供をして殉死し、その他に岩原牛之助(二十一歳)も殉死した。忠刻は忠政の世子だったが早世したため、弟の政朝が世子となって姫路藩第二代藩主となった。
家康や秀忠が、千姫の幸せを願い、幸せな結婚生活にふさわしい相手として選ばれたのだろう。夫、忠刻もその期待に応えて、千姫に女性としての幸せともたらしたのだった。
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