■全体として
黒田家(小寺家)が当時、置かれていた状況が理解できる内容でしたね。
播磨国で、龍野城の赤松政秀と、置塩城の赤松義祐(則房)に挟まれていた小寺家(実際には、別所氏などの勢力を始め、播磨は分裂状態でした)。父職隆は、その当主小寺政職に信頼を得て、小寺姓を与えられるほどでした。その信頼を裏切らないようにするために、頑張っていた職隆の姿がありました。
その職隆は外様の家臣として、譜代の家臣たちとの軋轢に悩みますが、真心で乗り越えようとしていたように見えます。
この小寺家の家老という立場は、小寺家が滅びるまで官兵衛の足かせにもなります。
その職隆は外様の家臣として、譜代の家臣たちとの軋轢に悩みますが、真心で乗り越えようとしていたように見えます。
この小寺家の家老という立場は、小寺家が滅びるまで官兵衛の足かせにもなります。
■ナレーション
私自身はあまり気にしていませんが、気になった方がおられたようですね。
大河ドラマ武田信玄のときのナレーションでも、(多少)似たような体裁でしたね。
このドラマでは、晴信(のちの信玄公)の母・大井夫人(若尾文子(わかお あやこ))が、自分の息子が後世で誤解されていることが多いため、我が子の名誉のために真実を物語る、という体裁を全話一貫してとっています。
最終回および一部の回をのぞいて、各放送回とも大井夫人の「今宵はここまでに致しとうござりまする」というセリフは、その年の流行語大賞に選ばれました。
大河ドラマ武田信玄のときのナレーションでも、(多少)似たような体裁でしたね。
このドラマでは、晴信(のちの信玄公)の母・大井夫人(若尾文子(わかお あやこ))が、自分の息子が後世で誤解されていることが多いため、我が子の名誉のために真実を物語る、という体裁を全話一貫してとっています。
最終回および一部の回をのぞいて、各放送回とも大井夫人の「今宵はここまでに致しとうござりまする」というセリフは、その年の流行語大賞に選ばれました。
■小田原攻めの場面
ここから話が始まります。
官兵衛は、和睦の使者として単身小田原城に乗り込みます。
時代劇で描かれるイメージでは、圧倒的優勢の秀吉軍が、あえて北条方を助けてやった、力攻めで城方を皆殺しにしないようにしてやった、という風に描かれることが多いです。
しかし、実際には、北条方に巨大城郭小田原城に籠城されてしまって手詰まりになり(小田原城は城内で農産物の生産ができ、長期の籠城に耐えうる城だった)、関白の威信を保つため短期間で決着をつけたかった秀吉が、膠着した局面の打開のため調略を得意とする官兵衛に行かせた、という側面も否定できません。
しかし、実際には、北条方に巨大城郭小田原城に籠城されてしまって手詰まりになり(小田原城は城内で農産物の生産ができ、長期の籠城に耐えうる城だった)、関白の威信を保つため短期間で決着をつけたかった秀吉が、膠着した局面の打開のため調略を得意とする官兵衛に行かせた、という側面も否定できません。
■国滅びてはまた生くべからず、死人はまた生くべからず
小田原城に単身乗り込むとき、「 国滅びてはまた生くべからず、死人はまた生くべからず」と言います。死んでは元も子もない。生きてこそ、活かしてこその人生だ。簡単に殺したり、ダメにしてしまってはいけない。大人の使命ではないでしょうか。
■馬に乗っていた(北条)
小田原城包囲中の秀吉のもとに馬に乗って移動しています。
官兵衛は戦場においては、輿に乗って指揮をしていた、という説が通説ですが、それは、馬に乗れなかったから輿に乗ったということではなく、馬にも乗れたが、輿の方が楽だったんでしょうかね。
官兵衛は戦場においては、輿に乗って指揮をしていた、という説が通説ですが、それは、馬に乗れなかったから輿に乗ったということではなく、馬にも乗れたが、輿の方が楽だったんでしょうかね。
■タイトルの水滴が落ちる場面
オープニング画面で水滴が落ちる場面(毛利元就のときも水滴が落ちます)。「如水」の「水」を表現しているのでしょう。水はどんな形にも変えて器に納まる。逆に、大きな器ほどたくさんの水を入れることができる。自分が、どれくらいの容量を持っているか。
■子役の若山 耀人くん
官兵衛の幼年期、万吉役の子がかわいいと評判に! http://blog.livedoor.jp/ninji/archives/35447084.html …
■質物をとらずに、黒田の家来にならんかと。それが、御着城の小寺政職の目にとまり、仕官した。
祖父重隆が目薬で財を成して、それで土地を買い、家臣を集め、勢力を蓄えていったのが、御着城の小寺政職の目にとまり仕官することができたという話は、司馬遼太郎さんもその説を採っています。本当だったかどうか、不明です。ただ、のちに福崎を福岡に改名しているように、備前国福岡にいたことは確かでしょう。福岡は商業地だったので、商売に関係していたかも知れません。官兵衛の遺訓に商人的感覚が見られますし。
■【伊吹善右衛門から伴天連の話を聞かされる場面】
ふと思ったのが、そのとき山口にキリシタンがいたか?ということでした。
ちょっとマニアックですが。。。のちに官兵衛はキリシタンになるので、ちょっと気になったことでした。
ちょっとマニアックですが。。。のちに官兵衛はキリシタンになるので、ちょっと気になったことでした。
結論は、山口にキリシタンが「いた」かも知れないということでした(イエズス会の史料などご存知でしたらご教示くださいませんか)。
みなさんご存知のザビエル。1549年に鹿児島に上陸しています。
その後、天文19年(1550年)8月、山口に来たフランシスコ・ザビエルは大内義隆に謁見しています。が、汚れた旅装のままで面会に臨む、ろくな進物も持たない、義隆の放蕩振り・仏教の保護・当時一般的だった男色などを非難する、など礼を大いに欠いていたことから義隆は立腹し、布教の許可は下りませんでした。ザビエルは畿内へ旅立ちます。
その後、天文19年(1550年)8月、山口に来たフランシスコ・ザビエルは大内義隆に謁見しています。が、汚れた旅装のままで面会に臨む、ろくな進物も持たない、義隆の放蕩振り・仏教の保護・当時一般的だった男色などを非難する、など礼を大いに欠いていたことから義隆は立腹し、布教の許可は下りませんでした。ザビエルは畿内へ旅立ちます。
天文20年(1551年)4月下旬、ザビエルは再び大内義隆に謁見しています。ザビエルはそれまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを学んでおり、今回は一行を美麗な服装で飾り、珍しい文物を義隆に献上しています。献上品には、本来なら天皇に捧呈すべく用意していたポルトガルインド総督とゴア司教の親書のほか、望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃などがあったといいます。義隆は、ザビエルに対して布教の許可を与え、その拠点として、大道寺を与えています。
しかし、大内義隆は1551年に家臣の陶晴賢に討たれ、その後、1557年毛利元就が防長を攻略して山口に入ります。毛利元就はキリシタン嫌いでしたから、ほどなく追放されたことでしょう(のちに官兵衛が豊後のキリスト教団を、毛利氏に頼んで山口に避難させます)。
官兵衛が生まれたのは1546年ですから、11歳の頃までであれば、伊吹善右衛門がキリシタンと山口の市(まち)で接触していた可能性はあります。ということで、「いた」可能性があるということでした。
■龍野城の赤松政秀に捕らえられた万吉が救出された場面
父は龍野で生捕りになった万吉に、何も言わずに帰るぞといいます。
母いわは、ひとまず万吉の頬を平手打ちにし「お前の軽はずみな行動がどれだけ人に迷惑をかけ、危険な行動だったかわかりますか」と叱ります。でも、そのあとに、命懸けで薬を取りに行ってくれた想いを感謝します。この連携プレー。この威厳と慈愛。
母いわは、ひとまず万吉の頬を平手打ちにし「お前の軽はずみな行動がどれだけ人に迷惑をかけ、危険な行動だったかわかりますか」と叱ります。でも、そのあとに、命懸けで薬を取りに行ってくれた想いを感謝します。この連携プレー。この威厳と慈愛。
■龍野の龍神池とは
母の薬草を採りに行った「龍神池」。
実在の池かどうかイマイチ定かではないのですが、龍野城の南西1kmほど、龍野高校のすぐ横に比較的大きな池があり、龍野城から最も近い大きな池のようです。
地図で距離を図ってみると、姫路城から龍野高校まで、距離16km前後。大人の脚で3時間前後でしょう。万吉とおたつの子供の脚だと、もっとかかったことでしょう。まあ、創作ではありますが・・・
実在の池かどうかイマイチ定かではないのですが、龍野城の南西1kmほど、龍野高校のすぐ横に比較的大きな池があり、龍野城から最も近い大きな池のようです。
地図で距離を図ってみると、姫路城から龍野高校まで、距離16km前後。大人の脚で3時間前後でしょう。万吉とおたつの子供の脚だと、もっとかかったことでしょう。まあ、創作ではありますが・・・
■母を亡くしたとき、ビードロを握っていた官兵衛
伊吹善右衛門からもらったビードロの玉。官兵衛は母いわにあげます。いわが亡くなったとき、官兵衛は泣きもせず、ただ、その玉を握りしめていました。それは母の形見。キリシタンに入信するきっかけとなる母の死を暗示していたのでしょうか。
■剣術の稽古にも精を出し、兵書も読むようになった
母の死をきっかけに、剣術の稽古にも精を出し、兵書も読むようになった官兵衛。父に『三略』の一節を引いて、「謀は密なるをもってよしとす」と献策します。和歌に逃避した話は不採用となりました。
生母のいわが亡くなってから、すぐに元服のシーンに切り替わりました。しかし、『黒田家譜』などでは、母を亡くした悲しみで和歌の世界に逃避したのを、円満寺の僧侶に、戦国の世に武士が和歌などに逃避していてはいけないとたしなめられ、敢然と武士として生きる決意をしています。その場面も描いて欲しかったなあ。
■とにかくよく考えていくことだ、すべては生き残るためだ
赤松政秀は、黒田家の調略を諦めず、祖父重隆を通じて職隆の説得を試みます。
小寺政職に取り立ててもらった義理を重視する父、職隆と、生き残るためにはどうにでも変化しなければいけないと利を重視する祖父、重隆。重隆は、黒田家にとって得であれば赤松でもつくが、職隆は、武士は義で動くもの、利で動くのは商人のすることと言って聞きませんでした。
この一見矛盾する二つ(義と利)をどう立てていくのか。有岡城へ単身乗り込んだ官兵衛が村重に捕らえられたときに、職隆はやはり義をとります。それによって、道が開けていくことになる。
祖父重隆が広峰神社の御師と組んで目薬を売って財を成した話については、根拠が不十分で本当だったかどうか疑わしい話です。金子堅太郎の『黒田如水伝』に初出の話で、司馬遼太郎さんが『播磨灘物語』に採用したため、大河ドラマでも採用されたのだと思います。ただし、官兵衛の遺訓には(いわゆる武士道というよりは)商人的な感性が多分に感じられるので、重隆が商人だったか、商人とのつきあいが多かったか、の影響を官兵衛が受けていた、という可能性は否定できません。
『黒田家譜』(貝原益軒、というより高弟の竹田さん)の重隆記には、
とありますので、彼が備前国福岡にいたようです。
ちなみに、福岡といえば、日本史の教科書で、室町時代の定期市の様子の絵をご覧になった方もおられるでしょう。当時は、シナの明との貿易が盛んで、シナで人気の日本刀の生産が盛んでした。中国地方では、たたら製鉄が盛んでしたから(宮崎監督「もののけ姫」でご覧になった方もあるでしょう)、その鉄を使って刀鍛冶が日本刀を作っていました。
『黒田家譜』(貝原益軒、というより高弟の竹田さん)の重隆記には、
「黒田下野守重隆は、高政の次男であった。永正五年戌辰の年、近江国黒田の邑に生まれ、幼い時に父に付いて備前国福岡に移った。のちに浦上村宗が備前国を荒らしまわったときに、重隆はその災難を逃れて、播州飾東郡(しきとうごおり)姫路に移った。」
ちなみに、福岡といえば、日本史の教科書で、室町時代の定期市の様子の絵をご覧になった方もおられるでしょう。当時は、シナの明との貿易が盛んで、シナで人気の日本刀の生産が盛んでした。中国地方では、たたら製鉄が盛んでしたから(宮崎監督「もののけ姫」でご覧になった方もあるでしょう)、その鉄を使って刀鍛冶が日本刀を作っていました。
重臣の小河、江田に告げ口されても、すぐには信じず、そのあと、石川源吾の陰謀だったことがわかると、職隆の前で、「お前たちは甘い。わしは職隆を信じておったぞ」と、二人に言って、うまく泳ぐ職隆。
こののち、職隆は織田方優勢のときには織田方について、毛利方が優勢のときには毛利方になびき、結局滅びてしまいました。ただ、・・・・(これは、種明かしになってしまうかも知れないので、伏せておきます)
こののち、職隆は織田方優勢のときには織田方について、毛利方が優勢のときには毛利方になびき、結局滅びてしまいました。ただ、・・・・(これは、種明かしになってしまうかも知れないので、伏せておきます)
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