2014年2月26日水曜日

NHK大河ドラマ軍師官兵衛 第8回 2014年2月23日 秀吉という男


時は、天正3年(15757月。

5月に武田勝頼が長篠の戦いで敗れた2か月後。

官兵衛は、小寺家の名代として織田家への使者となり、岐阜城に赴いたときの話。

信長への拝謁、名刀圧切長谷部の拝領、秀吉との出会い(秀吉が播磨に下向するのは、この2年後)など、それらしくドラマチックに描かれていました。

 

■岐阜城への使者


 

 小寺政職の名代として、織田家に属すことを伝える使者として岐阜城に信長を訪れた官兵衛。森蘭丸・・・ではなく万見重元(仙千代)は、「信長は回りくどいことが嫌いなので、聞かれたことだけに答えるように、しかも、あいまいな答えはダメだ」と注意しています。

 荒木村重が官兵衛に注意していたことと同じでしたね。「泣かぬなら、殺してしまえホトトギス」の短気なイメージをドラマに仕立てたのでしょう。

 

 ちなみに、森蘭丸(森成利)は天正5年(1577)、織田信長に小姓として召し抱えられているので、この頃はまだいません。

ちなみに、この万見重元(仙千代)役の田中幸太朗さん。2007年大河ドラマ『風林火山』では高坂昌信役で大河ドラマデビュー。

 

■万見重元(仙千代)ってだれ?


 

 あまり有名ではないですが、官兵衛との関わりがちょっとあるので、紹介させて頂きます。

 彼は信長の小姓の一人で、荒木村重が信長に謀反を起こしたときに、有岡城攻めで戦死しています。ドラマで、官兵衛を信長に案内していたように他の大名や家臣との取り次ぎも主な任務でした。奉行として政務を執行し、戦場では主に検使の役を務めていたようです。

天正6年(15786月、大津長昌・矢部家定・長谷川秀一(備中高松城攻撃中の秀吉に本能寺の変報をもたらしたとされる人物です)・菅屋長頼とともに播磨国神吉城攻めの検使を務めています。

同月、津田信澄とともに明石までの間に砦を構築、その様子を信長に伝えています。

10月下旬、荒木村重謀反の噂が出た際に、松井友閑、明智光秀と共に糾問使として有岡城に派遣されたなどの記録が残っています。

 

荒木村重が謀反を起こして有岡城に籠城したあとの有岡城攻めでは信長に従い出陣、堀秀政(久太郎。のちに大名となります)と共に甲山に避難していた住民を、戦闘の邪魔になると斬り捨てたようです。128日の総攻撃の時に、織田家の鉄砲隊を堀秀政・菅屋長頼とともに指揮して、有岡城石垣に迫り討ち死。

小瀬甫庵の『信長記』によると、自ら塀を乗り越えようとしたところ、長刀で突き貫かれたとされます。この戦死が、記録に残る唯一の武将としての働きでした。

 

■さっと動く小姓たち


 

 恐らく、情勢が動いていて情報がどんどん飛び込んでくる、日の出の勢いの織田家には仕事がたくさんあるから、きびきび動いていたのでしょう。

 あとは、信長に叱られたからでしょうか?きびきび動け!と。

 

■信長との謁見


 

 官兵衛の情勢分析は―

 (織田と毛利は同盟を結んでいた時期もあるが)いずれ織田と毛利はぶつかる。大国同士が東西から領土を拡げていく中で、いよいよ境を接しようとしているのですから、当然でしょう。

 

しかし、柴田勝家は「毛利はまだ敵になっていない」「重要なのは北国じゃ」といっています。

長篠の戦いで武田勝頼を破り東の脅威が無くなったいま、織田の当面の敵対勢力は、越後の上杉謙信、石山本願寺と各地の一向一揆、紀伊の雑賀・根来、中国の毛利でした。勝家は与力の佐々成政、前田利家らとともに越前、能登の平定を進めており、越中・能登方面で上杉と対峙していました。自分たちが手柄を立てないうちに、後輩の明智光秀や秀吉が毛利攻めで手柄を立ててもらっては困る、という設定もわからなくはありません。

 

これに対して、官兵衛は「毛利はいずれ敵になります。毛利を倒さなければ天下布武はありません」と先の見通しを述べて、論破しています。仮に上杉を倒したところで、天下の形勢はまだ変わらない。中国地方で八か国に支配力を及ぼしている毛利の方が重要な相手だと喝破しています。

 

代わって、滝川一益が「兵力はいかほどか」

官兵衛「500にございます」

滝川一益「あ!」

丹羽長秀「それは少なくて大変でござろう。上様に泣きつくわけだ」

官兵衛「信長様にしても桶狭間で今川義元の大軍を寡兵で打ち破った。孫子もいうように、兵の多寡は勝敗には影響がない。」またまた、孫呉の兵法を引用しています。しかも、扇子まで持ち出して。

 

信長が何も言葉を発することなく、鼻をかんだりして、重臣たちの様子をみています。

 

官兵衛はしかるべき大将を遣わせてくれれば、播磨を説き伏せてみせましょうと言っています。

ここで、信長はふいに立ち上がり、傍らに置いてあった刀をとりました。もしや、この場で斬って捨てられるのか・・・と息を呑んだ、次の瞬間、信長は「この刀をそなたに取らせる」と言いました。

 

驚きと安堵。

 

信長は官兵衛が本当に実行力があるのか“決め手”を求めていたのでしょう。毛利が重要な敵になる情勢分析ならだれでもできる。また、毛利攻めを平坦な山陽道からやった方がいい、というのもすぐに考え付くこと。しかし、播磨の国人や地侍たちが毛利に靡いているのは、あくまで毛利の威勢を恐れているだけで、忠誠心があるわけではない、利害得失を理解させれば、必ず織田方に靡いてくる、さらに、織田家が本気であることを示すためにしかるべき大将を派遣してくれれば、播磨の国人や地侍たちを調略して見せると、解決策にまで明確にプレゼンテーションして、クロージング。

 

 このとき、廊下を走ってきた秀吉。

 信長「遅いぞ!猿」

 秀吉「申し訳ありません。瀬田の唐橋の普請奉行が頼りない奴なので、尻を叩いて参りました。」

 信長「橋はいつできる」

 秀吉「今年中には。いや!三か月で仕上げてみせまする!」

 信長「三か月だな。その言葉忘れるな!」

 秀吉「心配ご無用!」(右手をかざして)

 

 あとで秀吉が官兵衛に話していたことや、信長が濃姫に話していたことから総合すると、秀吉は信長にやる気をみせ(瀬田橋を3か月という短期間で完成させるやる気)、しかも、官兵衛に頭をさげて「小寺は毛利攻めの要になります」と断言して、こいつなら、官兵衛たち播磨の国人たちともうまくやるだろうし、本気で仕事に取り組むだろう、安心して仕事を任せられる、光秀は最近たるんどる、本気で仕事に取り組むやる気が感じられない、ならば秀吉にやらせてみよう。

 

 これにより、秀吉も一方面軍の司令官に抜擢されることになりました。まさにスピード出世!

 

■上様って呼んでた


 

 信長のことを重臣たちは「上様」と呼んでいました。

 

 ちょっと立ち止まって、主君のことを何て呼んでいたのか見てみましょう。

 

いろいろあったようです。

 「御所さま」「大御所さま」「屋形」、「屋形さま」「お屋形さま」「御本城(ごほんじょう)さま」(北条氏康)・・・

 つまり、建物を使って尊称することが多かったようです。宮殿、御殿、城、館、屋敷など特定の建造物の名称です。

女性も「政所さま」「二の丸さま」

 

大名も、殿様に代表されるように、御殿にちなんだ敬称で呼ばれることが多く、室町時代に成立した屋形号を免許された大名は、家臣から「屋形」、「屋形さま」「お屋形さま」と敬称されています。

 

信長は「うえさま」と尊称されていました。

 

「うえさま」は古くは主に天皇を意味したようですが、室町時代には大名に使われるようになり、江戸時代には征夷大将軍(将軍)のことになったそうです。

 

足利義昭を追放したので、信長が武家のトップの立場として、そう呼ばせていたのでしょう。

 

■国宝 名刀「圧切長谷部」


 

 現在、福岡市博物館所蔵の名刀です。以下、拙著「キリシタン武将黒田官兵衛(中巻)」からの引用です。

 

「○国宝(名刀)(へし)(きり)長谷部」(福岡市博物館 蔵)

天正3年(1575)、岐阜城の織田信長に謁見し、小寺家が信長方に与し、播磨の国人たちも調略するなど、播磨国をはじめとする中国計略の献策をしたことへの褒美として、信長から与えられた。

昭和28年国宝指定。南北朝時代の(133436)頃の山城国(京都)の刀工、長谷部国重作。黒田家旧蔵の『黒田家御重宝故実』には、へし切の名称の由来が記されている。圧切は、信長公が茶坊主を手打ちにしたときに、台所に逃げ込んで、膳棚の下に屈んでいたので、刀を振り下ろしても斬れず、刀を指で圧して斬ったことによる。

也」。一部の史料には秀吉から長政が拝領したことになっているが、誤りである。」

 

 劇中で秀吉が話していたとおりの内容。ぴったしカンカン!

 

■秀吉の策略


 

 怖い上司のツボを心得ていて、いい評価を受け、いい仕事を任せてもらえる要領がいい部下。

 もし、会議に遅刻しなかったら、先輩部下に意見を潰されていたかも・・・

 そこで、わざと遅れてきて、しかも、やる気をみせて、注目をあつめ、じゃあお前に毛利攻めプロジェクトマネージャーに任命!

 

■信長にとっての道具


 

 「いい道具をみつけた」

 

 社長にとって、言葉は悪いですが、部下は道具や部品です。ただ、その道具や部品でも使い方は社長それぞれ。大事に使うか、使い捨てにするか。

 官兵衛が「命の使い道」が肝心だと、秀吉に泥棒の処断を思いとどまらせたように、大事にするのと対照的な信長の姿が描かれていました。人遣いが荒い信長というイメージと対照的な官兵衛。

 

 秀吉と“さし呑み”をしていたとき、

 秀吉「戦さで多くの家臣を亡くしてしまった。奴らが生きていたら・・・」

 官兵衛は、初恋のおたつを亡くして自暴自棄になっていたときに、祖父重隆から「命を粗末にするな」と諭されたことを秀吉に言いました。

 秀吉「いいおじじさまだ・・・」

 

このドラマのテーマのひとつは、間違いなく、「命の使い道」「命の大切さ」「人の活かし方」でしょう。ですから、私はこの場面で、二人が共感したことには非常に大きな意味があると思います。

ドラマ第1回の冒頭に、小田原城に単身乗り込む官兵衛がつぶやいたのも、「 国滅びてはまた生くべからず、死人はまた生くべからず」。死んでは元も子もない。生きてこそ、活かしてこその人生だ。簡単に命を投げ出したり、殺したり、ダメにしてしまってはいけない。大人の使命。

子供や若者から未来を奪う大人たち。知ってか知らずかに関わらず、そういうことが多くなってくれば、国は衰退し、いずれ大国にのみこまれてしまうことでしょう。

 

■政職ぐらつく


 

職隆が官兵衛からの書状を見せ、信長への拝謁が首尾よくいったことを、政職に伝えています。

しかし、政職は「先鋒になるなどと言った覚えはない」と渋い顔。自分の所領安堵が豪族たちの関心事だったので、仕方ない面はありますが、先鋒になって犠牲を出したり、自分の領地を危険に晒したりすることを避けたい心理が先に立って、大局観というものが欠けています。

 

 このことがのちに官兵衛を窮地に陥れることは以前も述べた通りです。

 

■長政と又兵衛の剣術の稽古


 

 長政の方が又兵衛より年少(8歳年下)なので、剣術の稽古の相手にはなりません。このころ、長政8歳、又兵衛16歳。本来であれば、光の方にも負けるわけはないですが、ドラマなので・・・

 

光の方は又兵衛にあくまで真剣勝負の大切さを教えるため、薙刀をもって又兵衛に対します。

薙刀と小太刀での戦いでは、小太刀は相手の間合いに入らなければ、薙刀を持つ相手を倒すことができません。それでも又兵衛は、相手は女子だから簡単に勝てるだろうと高をくくっています。光の方は、敵を弱いと決めつけて侮ったら命を落とすことを諭しています。

 このことがドラマの後半で出てくるかも知れません。

 

■御着の様子がおかしい


 

 毛利側は小早川隆景が言っていたように、織田方が播磨に手を伸ばしてくる前に、播磨の国人・地侍を毛利方に調略しようとし、毛利方に近いという設定の櫛橋左京進を通じて、小寺政職に毛利方につくように説得を試みます。

 

 すでに述べたとおり、政職はぐらついているので、やっぱり毛利方に与するのがいいか・・・と思ってみたり。

 

 光の方は、政職に影響力がある正室お紺に、織田方につく利を説き、政職のぐらつきを止めました。

 

■長浜城に赴く秀吉と官兵衛


 

 岐阜城下の賑わいをみて官兵衛たちは感嘆しています。

 特権を排除した楽市楽座政策、減税措置、関所の撤廃などの規制緩和政策により、各地から商人が集まり、それにつれて、人が集まり活況を呈していたようです。

 

 その岐阜城下から、秀吉の居城長浜まで約50km

「昨日まで我らは岐阜におった」と口裏を合わせていますが、馬を使えば3時間もあれば到達する距離ですので、特に無理な設定ではありません。

 

 秀吉は今浜を長浜に改め、岐阜と同様に経済力のある都市を作ろうとしていました。

 

 みせしめに泥棒を殺そうとした秀吉に対して、官兵衛が命の大切さと説き、「昼間は働かせて、夜は牢に入れるがよろしかろうと存じます」と言ったことは、『古郷物語』にある逸話に変形だと思われます。

 

 そこには、盗みを働いた家臣に対して、殺してしまうのではなく、そのような罪を犯させてしまう上役の罪を自覚させつつ、本人に反省させて殺さずに活かすことを考えるべきだと、家臣に諭したり、

家臣を折檻するときに、大黒柱に縛り付け、ときどき解放させて、指示を言いつけ、しばらくしたら、また大黒柱に縛り付け、本人が反省して罪(または失敗)をしないようにした、という話がもとになっていると思われます。

 

せっかくなので、拙著「キリシタン武将黒田官兵衛(中巻)」から、官兵衛が人を大切にした逸話について書いた部分をお見せしましょう!

 

「次に、金子堅太郎の『黒田如水伝』では、『古郷物語』の次のような逸話を引用している。

l  世の中が乱れて、人を殺すことを常とし、哀れとも思わなかったし、主君が家臣を手打ちにすることが多かったが、如水は手打ちにしたことがなかった、と書かれている。

l  家臣に恨みを買って行方を暗ましたこともないし、追放したことも稀だった。切腹させたものもいない。もし、普通であれば殺すべきほどの(ことをしでかした)者も、官兵衛はそれを親類に預け、預ける先がなければ、富裕な老臣に預けて、餓死させないように命じた。罪の軽重によって遅速はあったが、最終的にはまた召し出して、元のように懇ろに使った。

l  怒るときは思いっきり叱って、そのあとすぐに用事などを言いつけた。

l  召使のなかで盗みを働いたものがあったので、家臣たちは首をはねてくださいといったが、官兵衛は追放せよと言った。その者は盗人に生まれついた者であった。お前たちは数度の盗みを知りながら、どうして今まで放置していたのかと、かえって(家臣たちを)叱りつけた。

l  柿札や材木の端でも、集めて風呂の燃料用として利用するように命じていたが、柿札は大工が勝手に使ってしまい、その他の端材は下僕が盗んで無くなってしまった。それを奉行が官兵衛に報告し、盗んだ者たちを罰すれば、今後はなくなるだろうといった奉行に対して、官兵衛は、盗んだ木切れにその者たちの衣服を着せても遣うことはできないだろう。お前たちは何とも思っていないようだが、人を殺すことを、どれほど大変なことだと思っているのか。急いで彼らを解き放てと申し付けた。[tn1] 

と、これ(らの逸話)は官兵衛の仁愛の心をもっていたことを示す美談としている。

・・・(中略)・・・

(3)その他の逸話

また、『古郷物語』以外にも、次のような逸話を引用している。

l  引用する『黒田実記』には、如水が常に長政を戒めていたのは、人を殺すのはとても重いことだ。殺さずに活かすことこそが重要だ、としている。

l  本能寺の変のときに昼夜兼行で知らせに来た飛脚を、秀吉は殺して秘密漏洩を防げと命じたが、官兵衛は密かにかくまった。

l  秀吉が怒りのあまり、赤松則房を殺せと命じたが、如水は主命が仁慈の道に背いていたことにより、則房を助けて越後に逃れさせた。

・・・(中略)・・・

官兵衛がこのような心根で合戦に臨んでいたので、一人の敵も、みだりに殺戮したことはなかった。これは、孟子の「人を殺すを嗜まない者」であって、この心があってこそ、大国の主となる特性を備えていたということができよう(『黒田如水伝』 傍線引用者)、と結んでいる。」

 

 かなり長めに引用しましたが、人を殺すことが日常茶飯事だった戦国の世にあって、官兵衛が人を殺すことを好まなかった理由やその背景については、拙著をご覧頂ければと思います。

 

■石田三成登場!


 

 このころの秀吉は家臣団の形勢や育成に力を入れています。もともと百姓の出身でしたので、家臣がいませんでしたから、長政12万石の大名にとっては、有能な家臣ができるだけ多く欲しかったのは当然でしょう。

 尾張時代に家臣になった蜂須賀小六をはじめとする前野長康、山内一豊、堀尾吉晴、桑山重晴、加藤清正、福島正則、加藤嘉明(繁勝)らと、

 美濃時代に家臣(ないし与力)になった竹中半兵衛、生駒親正、仙石秀久らがいます(与力というのは、秀吉の直臣ではなく、あくまで信長の直臣ですが、秀吉の補佐につけられているという意味です)。

 そして、近江の長浜城主になったときには、積極的に有能な家臣たちを発掘しようとし、その中で、寺の小姓であった石田三成(佐吉)とも出会っています。

 

 三成はこの頃に秀吉にここまで接近した立場にあったかどうかは微妙ですが、父や兄とともに仕官し、秀吉の小姓として仕えていたようです(もう2年くらいあとから仕え始めたという説もあるようです)。

 

 秀吉の”夜の接待”や、そのあとに妻おねの機嫌を直すための準備もぬかりなくつとめ、気が利く人物として描かれています。

 

■夜の接待


 

女性たちを呼び、接待をさせる秀吉。そういうことに免疫がない官兵衛は照れます。栗山善助は「本当に織田家の出世頭なのでしょうか」とひそひそ話。

 

秀吉「おい善助。聞こえておるぞ」

善助「ああ・・・すみません・・・」

 

女性にデレデレする姿を見せあって、結束を強めようとしたのか・・・まあ、私もよく接待を受けましたが。岡田官兵衛のような私です(笑)

 

■召し抱える


 

 屋敷での秀吉家臣との懇親会で、母里太兵衛が蜂須賀小六と相撲をとって、投げ飛ばしています。

 相撲は神事であってスポーツではありませんが、戦国時代には武芸の一つとされていたようです。

 

ドラマでもありましたが、信長が相撲をみている場面。信長は相撲を奨励し、信長自身が土俵の原型の考案者とされています。『信長公記』にも相撲の記載がみられます。

 

 川並衆として力もあったと思われる蜂須賀小六を、太兵衛は投げ飛ばしてしまいました。

 

 秀吉は、太兵衛を召し抱えようとします。500石とか1,000石とか破格の条件です。官兵衛が小寺家に小姓として仕えたときには、80石でしたから、その10倍近くです。

 

 それでも、三人は動きませんでした。よりよい条件を提示した会社に転職してもいいのに。官兵衛との個人的な信頼関係あってこそでしょう。この時代には、江戸時代のように忠義とか武士道とかいうものはあまり強く効いていませんでしたから。

 

 秀吉「わしの言うことが聞けんというのか」と顔をひきつらせますが、

 善助「秀吉様の下知には従いますが、黒田家を離れることだけは聞けません」と、

秀吉の顔を立てながら、断っています。うまい断り方ですね。

 

 のちに、徳川家の重臣石川数正を引き抜いています。律儀ということになっている三河者を引き抜いたことは、大事件となりました(今で言ったら、企業秘密を知っていた重要人物がライバル会社に引き抜かれたことになるので)。

 

■みみず、むかで


 

 多分フェイクでしょう。もしかしたら、竹中秀吉がムカデを食べるのもアドリブだったのか。ミミズを食べて「苦い」と言ったのがアドリブで、岡田クンが食べてみたら、苦くなかったので、素の笑いが出てきたんでしょうか。

 

 百姓時代の秀吉は何でも食べたということでしょう。イナゴではふつうですからね。へびのかば焼きというのも微妙ですし。女性ファンはフェイクとわかっていても、眼を背けてしまう(もう岡田クンとキスできなぁ~いと思った人もいらっしゃったかも知れません(笑))

 

今回ミミズを食べたお陰で、後々有岡城の土牢に閉じ込められたとき、何でも食ったという話に繋がるかも知れません。

 

■播磨に調略の手


 

 播磨国内では半分以上は毛利方につき、播磨東部の三木城の別所長治と御着城の小寺家のみが織田方という設定です。毛利に近い西部は毛利、織田に近い東部は織田ってなわかりやすい設定です。

 

 のちに出てくると思いますが、姫路の南の英賀には浄土真宗(一向宗)のメッカ、御影堂があり、一向宗徒が多くいました。この英賀の城には、三木氏という司馬遼太郎さんのご先祖様がいて、官兵衛と戦って敗れ、帰農したようです。

 

 毛利方はこのあと、水軍の将である浦(乃美)宗勝に兵5千をつけて、英賀に上陸させ、小寺家を攻めさせます。官兵衛は兵力不足の不利をどうするのか。もしかしたら、ドラマで描かれるかも知れません。

 

■義昭を抱き込む


 

 小早川隆景が言っていたように、足利義昭公は何の力もないとはいえ、抱き込めば織田を討つ大義名分ができると言っています。ちょっと毛利側の描き方が悪役に近いですが(毛利の旗印が黒地だし、暗い部屋だし。輝元も頼りない感じだし)、毛利側としては、義昭公が転がり込んできたことは、織田家との戦いに巻き込まれるから、迷惑だと思っていたとする説もありますが、今回のドラマでは、織田家と積極的に対決する姿勢を打ち出し、そのために義昭公を積極的に利用しようとしています。

 

■半兵衛が官兵衛を試す


 

 竹中半兵衛が秀吉の許にやってきます。半兵衛は形のうえで、秀吉の家臣ではなく、信長の家臣なので、秀吉も頭を下げて「お役目大儀」と言っています。

 

 半兵衛「使える者でしょうか」

 

 いよいよ次回、半兵衛にその力量を試されることになります。あくまでドラマです(笑)

 

■紀行


 

岐阜城でした。現在の住所は、岐阜県岐阜市金華山天守閣です。岐阜城は稲葉山城とも呼ばれ、金華山頂に築かれ、山の北側に長良川が東西に流れる天然の要害でした。

信長の屋敷も麓にあったとのことで、いつも天守閣にいたわけではなかったようです。今はロープウェイで山頂まで楽々登れますが、当時は、大変だったでしょうからね。

 

 

 

それでは、次回まで楽しみに待ちましょう!


2014年2月17日月曜日

NHK大河ドラマ軍師官兵衛 第7回 2014年2月16日(日)(その3)


■後藤又兵衛キタ―――――

 


又兵衛は判官びいきの日本人にとって格好の材料だったのか、様々な虚説が横行しているようです。

 

別所氏の家臣だと言われていますが、実際には、播磨国神崎郡春日山城主の支流であったようです。本家は秀吉の播磨侵攻で早々に滅ぼされています。そのため、父は御着城の小寺政職に仕えましたが没し、伯父とともに黒田官兵衛に仕えました。しかし、官兵衛が荒木村重にとらえられたとき、伯父が黒田家を裏切ったため、又兵衛も追放されてしまいます。

その後、仙石秀久に仕えましたが、目立った活躍もなく、黒田長政が高禄で呼び戻しました。又兵衛もその恩に応えて数々の軍功をあげて活躍しました。

ドラマでは、親を亡くして親戚をたらい回しにあって御着の小寺政職に拾われたが、それをもらい受けたと父職隆が言っています。

明日、ママがいない又兵衛か!ちょっと現実とは異なるようです。母の温もりを知らないということにして、二人目の子ができない光の方が、母性を発揮していく設定にしようとしているのでしょう。同じ母親に育てられた長政と又兵衛が兄弟同然の絆で結ばれていた・・・が、しかし・・・というような形。「が、しかし・・・」の部分は今は言いません。


■毛利方の調略―光の姉、(りき)

力は上月(こうづき)作用城)上月景貞の妻た。永禄3年(1560)、16歳で播磨国守護職・赤松氏の一族である上月十郎景貞に嫁ぎ、その後2人の子を産んでいます。

ドラマで、官兵衛に嫁ぎたくなくて、狂言自殺騒動を起こしたのは記憶に新しいところ。

上月城は播磨西部、備前国との国境沿いの城です。

ドラマで、力は毛利方との境界付近にある上月城は毛利方につかないと立ち行かないと言っていました。

確かに毛利方の宇喜多家と境を接する地域であったため、うかつに織田家についていれば、真っ先にターゲットにされてしまいます。

 

のちに、播磨に下向してきた秀吉が陥しました。そして、信長の命で、尼子勝久、山中鹿之助が上月城に入り、尼子の旧臣を含む、数千の兵が入り、毛利方の抑えとしました。信長は毛利と絶対に手を組まない尼子を利用したんですね。尼子は毛利に滅ぼされていますので毛利とは死力を尽くして戦うことが予想されますから。

 

天正5年(157711月末より、上月城では織田軍と毛利軍との間で約7ヶ月間にわたり数度の攻防戦が繰り返され、天正6年(15782月には毛利方に属した夫の景貞が宇喜多直家の命により城主となります。ですので、ドラマのように最初から上月城主だったように描かれているのは微妙ではありますが、ドラマなので時間の関係もありますし、やむを得ないでしょう。

その後、同年3月下旬に織田方の羽柴(後の豊臣)秀吉らの軍勢による猛攻と、配下の江原兵庫助の謀反により落城。景貞は負傷しながらも城外へ脱出し、わずかな手勢を率いて高倉山の秀吉の本陣を目指し奮戦するも叶わず、千種川沿いの櫛田(兵庫県佐用町櫛田)の山中にて自刃または討死したとされています。

この時、力は2人の子と共に義弟である秀吉軍の官兵衛の陣中を頼って落ち延びます。官兵衛はその悲境を憐み、秀吉の許しを得て3人を黒田家で引き取ることになりました。後に力は出家して妙寿尼と称し、また2人の子のうち、姉は小早川秀秋の家老・平岡石見守に嫁ぎ、弟は元服して名を上月次郎兵衛正好と改めています。

 

ネタばらししてすみません・・・

 

力は黒田家も毛利方につくように、官兵衛に南蛮渡来の秘薬を渡し、両目でウインク。官兵衛夫婦に子供ができないことを知っていて、プレゼント攻撃をしたのでしょうが、そんなことでは、官兵衛は動かされませんでしたし、光の方も姉は姉、私は私と、自分の意見を持って対処しています。このあたりも情にほだされていては、命が無くなる戦国時代ならではかも知れません。

 

■松壽丸の怪我

 

 松壽丸は若様ですから、家臣たちも本気で相手をする者はいなかったでしょう。その物足りなさから、松壽は又兵衛に本気でやれと命じたのでしょう。

又兵衛「若が本気でやれというから・・・男と男の勝負なのです」

松壽は、この野郎、又兵衛なんて無粋なことは言いませんでした。

 ただ、又兵衛は母に守られている松壽丸をみて嫉妬し、どこかへ行方をくらましてしまいます。光の方が自分で探しにいっているということは、侍女たちもかわいげのない又兵衛を探すものはなかったのかも知れません。

 雨ざらしになった又兵衛はひどい熱で、光の方は自ら看病します。このとき、又兵衛は母のぬくもりを感じたことでしょう。

 

(つづく)

NHK大河ドラマ軍師官兵衛 第7回 2014年2月16日(日)(その2)


■浅井朝倉との戦いに勝利―浅井・朝倉の滅亡、金箔の骸骨の盃の逸話


 

 恵瓊の予言通り、浅井朝倉は滅亡しました。

 北近江の浅井家、越前の朝倉家は一時信長を追い詰めますが、姉川の戦いで織田徳川連合軍に敗れ、その2年後に北近江に侵攻した織田勢に対抗して、朝倉勢が援軍にかけつけたものの、織田勢が即座に北近江の城を落したため、朝倉勢はやむなく撤退し、織田勢の追撃を受けて崩れ、越前まで敗走して滅亡しました。

 

ドラマのなかで黒田家の家臣たちが毛利か織田かで議論になっているとき、井上之房は「信長は金箔をしたしゃれこうべで酒を飲んだらしい」と言っていました。

この話は時代劇では度々登場します。出典は織田家の家臣太田牛一が書いた『信長公記』です。これには、天正2年(1574)の正月、内輪の宴席において薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にした朝倉義景・浅井久政・長政の首級を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとあります。ただ、これを杯にして酒を飲んだというのは俗説で、史料には見当たりませんし、信長はあまり酒を飲まなかったので、後世の作り話でしょう。

妹の市を嫁がせた長政が裏切ったことに対する怒りや憎しみを形に表したものでしょう。

 

■秀吉、城持ち大名になる

 

 上洛した折にドラマの映像では一兵卒のような身なりでしたが、すでに足軽大将として一団の指揮を任されることもあったので、それくらいの身分になっていたのであって、ただの草履取とか足軽の一兵卒ではなかったことは理解しておいた方がいいでしょう。

 そして、浅井・朝倉との戦いや、畿内での戦いに勝利して、窮地を脱した織田家では、秀吉に北近江の知行地をあてがわれます。秀吉も、荒木村重同様、城持ち大名になりました。

 信長が褒美を与える際に、「お前は日頃城持ちでないことをぼやいているそうだな」、といったん脅しを入れて、秀吉に「お屋形様にお仕えできるだけでも果報者でございまする」、とお世辞を言わせておいてから、褒美を与えるという心理術。叱ってからほめるみたいな感じ。部下をコントロールするテクニックの一つですね(生々しいですが)。村重もこの心理術にはまったと描かれていました。

 

柴田勝家は「猿が大名になったのは古今未曾有の珍事じゃ」とつぶやきます(心の中で思っただけかも知れません)。この下剋上の時代でも、やはり出自・血統を重視するので、どこの馬の骨からもわからない“猿”面冠者が、城持ち大名に出世したというスピード出世はやはり驚きだったのでしょう。

 

■羽柴秀吉を名乗る

 

 秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄8年(1565年)112日付けの書状で、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)らしいので、「秀吉」というのはこのときすでに名乗っていました。

 羽柴については、織田家の重臣丹長秀と田勝家から一字もらって「羽柴」とする説が一般的ですが、「逆説の日本史」で有名な井沢元彦さんは「端柴」、つまり、木切れや木端などのようにとるに足りない者という意味の単語に、「羽柴」の感じを当てたのではないという説を唱えられています。

 いずれにしても、謙遜、ごますりをやって、卑屈になって潰されないように振舞っていたのでしょう。

 

■長浜城

秀吉は浅井氏の旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となります。

おねは、「落ちた城は縁起が悪い」と、新城の築城を提案しています。

 

長浜の統治政策としては、おねがいったように、岐阜の城下を参考に新しい城と城下を作り、民が幸せに暮らせる国造りをやっています。

具体的には、年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まりました。そのことに不満を感じた秀吉は方針を引き締めようとしますが、ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとしたようです。さらに近江国での人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成一家、加藤清正、福島正則などの有望な若者を積極的に登用し、家臣団の拡充を図っています。

 

 秀吉は、「さすがわしの女房じゃ」「すべてはかか様のおかげじゃ」と言って糟糠の妻をほめちぎっています。こんなことを笑顔でさらって言える旦那はさわやかでいいですよね。秀長や蜂須賀小六も、秀吉が城持ちになれたのは俺たちのおかげじゃと言いましたが、秀吉はそれをうまく否定して「すべてはかか様のおかげじゃ」と言っても悪い気はしなかったのではないかと思います。

 

(つづく)

NHK大河ドラマ軍師官兵衛 第7回 2014年2月16日(日)(その1)


■武田信玄の死―信長包囲網(第2次)の崩壊
 
 三河国への遠征で病気を発し(危篤となり)甲斐国に引き揚げる途中、信濃国駒場で亡くなったと言われている。信玄は自分の死により自国に動揺が生じ、他国の侵略を受けることを見越して、三年秘喪を命じています。
 しかし、情報は洩れてしまっていました。信玄が危篤となってからの武田軍の行動が異常に遅くなったことや、すでに武田家の内外に密偵がいたと思われ、死を隠すのは難しかったのでしょう。
信玄は三河国野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止。このため、信玄は長篠城において療養していましたが、近習・一門衆の合議にては4月初旬には遂に甲斐に撤退することが決まります。
412日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去、享年53。臨終の地点は三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされています(小山田信茂宛御宿堅物書状写)。
『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿する事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春(信房)、内藤昌秀(昌豊)らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したといわれています。
信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿しています。
天正3年(1575年)36日には山県昌景が使者となり高野山成慶院に日牌が建立され(「武田家御日牌帳」)、葬儀は『甲陽軍鑑』品51によれば長篠の戦いの直前にあたる412日に恵林寺で弔いが行われており、快川紹喜が大導師を務め葬儀を行ったといわれています(「天正玄公仏事法語」)。快川和尚は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言って亡くなった、あの和尚です。
江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)に描かれる伝説的な人物像が世間に広く浸透し、「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率い、また上杉謙信の良き好敵手としての人物像が形成されています。
 私はなぜ信玄が「神格化」されているのか、しかも江戸時代に。家康をひん死に追い込んだ信玄なのに。と思っています。その理由として考えているのは、徳川家が武田家滅亡後に武田家の旧臣を多く召し抱えたため、間違っても信玄を悪く言うことができなかったことや、信玄が滅茶苦茶強かったからこそ、家康公が敗北を喫したのであって、家康公が弱かったわけではないし、家康公は戦のあとに猛省して天下をとられたのだ・・・という神格化のための信玄の神格化があったのではないかとにらんでいます。
 官兵衛も実は“神格化”されてたりして・・・江戸時代の史料がもとになっている話は眉唾ものです。拙著「キリシタン武将 黒田官兵衛 天の巻(中巻)」ではそのあたりにふれています。
 
■安国寺恵瓊の登場
 
 安国寺恵瓊は、もともと安芸国の守護武田家の出身です。甲斐国の武田家と同族です。ただ、安芸武田氏は毛利家に滅ぼされてしまいました。
“安国寺”は、住持した寺(安芸安国寺(不動院))の名から(大河紀行にて取り上げられていました)。毛利氏の外交僧(武家の対外交渉の任を務めた禅僧)として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となりました。豊臣政権において秀吉によって取り立てられて大名となっています(四国平定により伊予国内で大名となりました)。その後、関ヶ原の戦いで西軍の一隊として参加しますが、吉川広家の妨害にあって本戦に加わることなく敗退し、京都で石田三成、小西行長らとともに斬首されました。
 
天文10年(1541)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると(大河ドラマ「毛利元就」で、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家。その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となります。恵心は毛利隆元と親交のある人物であったため、これがきっかけとなり毛利氏と関係を持つこととなりました。僧としては天正2年(1574)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもついていて、“相当やり手です”、エリートです
実家の仇であるはずの毛利家になぜ仕えたのでしょうか。それは、出家し仏道修行をする中で旧仇を忘れたか、相手にするには多勢に無勢で、毛利家を利用して出世した方がいいと思った、といったところでしょう。
 
ドラマ中では、長政と剣術の稽古をしたりして、黒田家に上手く入り込んでいます。やり手の“営業マン”といった描き方をしています。松壽丸(のちの長政)に正々堂々と勝負せよって言われちゃってます、八百長するなと。大人は負けてあげないといけません(笑)。その調子のよさをみて、光の方も心の中で「調子がいいこと」と思って、若干警戒気味のように私には見えました。
 
 官兵衛は休夢の忠告をきかず、恵瓊に対面します。
そのとき、恵瓊は、自分のことを「毛利を影で操る生臭坊主」と言っていますが、それが恵瓊に対する順当な世間のイメージでしょう。
 なぜ、恵瓊が毛利家の命運を左右する(?)外交官たりえたのでしょうか?
ちなみに恵瓊は出家していました。「出家する」、というのは「家出する」ことではなく、家=俗世間から離れて仏道修行をすることが本義なので、外交僧として活動することも俗世間に関与していることになりそうですが、僧侶がその“俗世間から超越している”という立場ゆえに、敵方の城に乗り込んでも相手方から殺される可能性が低く、戦国時代の命のやり取りをした外交の場では非常に重要な役割を果たしていたようです。
今川家に仕えた太原雪斎和尚も同様に外交僧としても活躍していました。今川、武田、北条の三国同盟を成立させたことも雪斎和尚の尽力があり、同盟の会談は和尚が住持を務めた善徳寺で行われました。
 
天正元年(15731212日付児玉三右衛門・山県越前守・井上春忠宛書状で、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書いており、織田信長の転落と、その家臣の羽柴秀吉の躍進を予想し、結果的にそれが的中したことで恵瓊の慧眼を示す逸話としてよく引き合いに出されます。
これより派生して、『太閤記』における恵瓊は、無名時代の秀吉に「貴方には将来天下を取る相がある」と予言し、後年予言通りに天下人となった秀吉から領地を与えられる役どころとなっています。
ドラマの中で、光の方に向かって、「わたしの予言はそこら辺の占い師より当たります」と言っていたのも、このあたりの“予言”を背景にしていると思われます。
ただ、予言があたるとか、生臭坊主とか、いったイメージは石田三成や小西行長などの悪いイメージと同様、造られたものだと思われますので、話半分にしておいた方がいいと思います。
 
 “織田と毛利どちらが勝つか”、官兵衛の存念を聞きたいという恵瓊に対して、官兵衛は明確な答えを出さずにはぐらかしています。恵瓊が最後に残した台詞は、浅井朝倉も信長に滅ぼされるでしょう、というものでした。果たして、恵瓊の予言通りになります。また、信長に逆らったら、絶対に許してくれないという厳しさを信長は持っているから気をつけよ、という意味なのかも知れません。
 
■ナレーターが変わった
 
 と思っていたら、ナレーターが変わりましたね。
 藤村志保さんは骨折をされて絶対安静となってから十数日間収録を続けられていたそうですので、もしかしたら、このタイミングで降板したのは、これ以上続けることが難しくなったか、あるいは、何か裏の事情でもあったのでしょうか。
 
(つづく)