2014年1月20日月曜日

NHK大河ドラマ軍師官兵衛の気づき 第3回 1月19日(その1)


全体として、題名通り、命を粗末にすることなく、乱世が生んだ恨みの連鎖を官兵衛がどう乗り越え、一人前の武将として育っていくかが、わかりやすく、巧みに描かれていましたね。荒木村重、堺の商人、キリスト教・・・これらとの出会いが、官兵衛に生きる力を与えます。

 

■室津城襲われる!


播磨浦上家・清宗に嫁いだおたつは、赤松政秀の急襲にあい討たれてしまいます。官兵衛は室津城に急行し、おたつの最期をみとります。おたつは最期に官兵衛に何か言い残しましたよね。何と言ったのでしょうか・・・

「私の仇を討ってください」

「最期にあえてよかった」

「私は一時なれど幸せになれました」

「私の仇をとらなくてもいいです」

あるいは、その後の官兵衛の台詞(重隆との海辺での会話)から、何を言ったか聞き取れないままだったかも知れません。

 

■赤松討つべし!怒る官兵衛


その後、官兵衛は怒りのあまり、赤松を討つべきだと主張します。このまま赤松を討たなければ、武門の恥だと。

評定は、しばらく様子を見ようということに決します。一方、職隆は弟の休夢たちから弔い合戦をすすめられますが、受け入れませんでした。もちろん、職隆自身も同じ気持ちでしたが。

官兵衛は怒りのあまり、櫛橋左京進にくってかかったり、森の中で刀を振り回して憂さを晴らします。気もそぞろな官兵衛、家臣たちは元気づけようとしますが、ダメでした。

『黒田家譜』などでは、母と死別した第1回の場面でふさぎ込むことがありましたが、ドラマでは初恋の人おたつと死別したときにふさぎ込む設定でした。

 

■職隆「黒田家の恥だ」


仕事に身が入らない官兵衛を職隆が見かねて諭します。一時の怒りや憤りで戦さを起こしてはならない、と。

孫子の一節「怒りはまた喜ぶべく、憤りはまた悦ぶべきも、亡国はまた存すべからず、死者はまた生くべからず」を引いて。

これは、第1回の冒頭のシーンで、小田原城に乗り込むときに官兵衛が言った台詞とダブります。職隆が官兵衛に諭したのと、官兵衛がこの台詞を言ったのと、ほぼ同年代でした(四十代なかば)。

職隆「死んだ者が再び生きかえることはない。今のお前には分かるまい」官兵衛もその年になって理解したのでしょうか。

 

「今のお前は黒田家の恥だ」と、強く言います。
 
 
 
 

■祖父重隆との会話

おたつ「私は官兵衛様をお慕いして申しておりました。しかし、この話をお受けしたときに、その思いはきっぱり棄てました。これで胸の仕えが取れました」と重隆にほほ笑みます。それを凝と聞いている重隆。政略結婚に翻弄されるおたつは、未練を断ち切るために職隆に官兵衛が好きだったと告白します。祝言という幸せの絶頂に、初夜を迎えることもなく、無残に不幸のどん底に叩き落されたおたつ。自分の身の上に起きたことを、しっかりと受け入れていったように見えます。
しかし、官兵衛は現実が受け入れられませんでした。殺し合いの世の中ですから、いつ死んでもおかしくないという覚悟をもって生きていたと思いますが、官兵衛はまだ若く、経験も乏しいため、冷静に受け入れることが難しかったのでしょうか。
 
官兵衛「お味方が討たれた、武士の面目が立てません。」
重隆「そんなザマでは赤松に勝てない。仇討などして、命をムダにつかうべきではない」と諭します。しかし、官兵衛はなかなか言うことを聞きません。
官兵衛「おたつは、私の腕のなかで死んでいったのです。婚礼の夜に泣きながら死んでいったのです。仇を討たねば、おたつは・・・(泣)」
重隆「たわけ!頭を冷やせ。あのおたつが仇討を望んでいると思うか。お前はまだ若い。世の中をまだ知らん。播磨は狭い。世の中を広くみて、自分が何をなすべきか考えるのだ。」
この重隆の言葉は重いと思います。年の功でしょう。これは現代のわれわれにとっても同じことが言えると思います。世の中を知れば、視野が広がり、自分が何のためにいきるべきか見えてくる。狭い世界で生きていると、どうしても、小さなことが気になる。
 
それから間もなく、重隆はこの世を去ります。黒田家の礎として、官兵衛を見守り続けた生涯であった、とナレーション。『黒田家譜』の重隆記には、「黒田下野守重隆は、高政の次男であった。永正五年戌辰の年、近江国黒田の邑に生まれ、幼い時に父に付いて備前国福岡に移った。のちに浦上村宗が備前国を荒らしまわったときに、重隆はその災難を逃れて、播州飾東郡(しきとうごおり)姫路に移った。永禄七年(引用者注 1567)二月六日に亡くなった。姫路の心光寺に葬られた(浄土寺で位牌もこの寺にあった)、法名は春光院善岩宗卜、享年五十七歳であった」と書かれています。黒田家の出自にかかわるその後の記述には触れませんが、重隆が備前の福岡(現在の福岡県福岡市の語源です)に流れ着き、そこから姫路に移動したことが書かれています。“商人”の気質を重隆から受け継いだ官兵衛は、体面やプライド、小さな義にとらわれているのではなく、もっと大きな“義”のために戦ったのです。


■信長「仇討などくだらぬ」

 愛する信行を信長に殺された土田御前は「お前は鬼か」と信長に憎しみを向け、お濃は「父を兄に討たれた仇を殿に注いでもらいたい」と憎しみにとらわれています。そんなとき、信長は「仇討などくだらぬ」と言ってのけました。

 そんなのにとらわれているのではなく、必要な美濃をくれるならとる。自分の行動基準はそんなものだと。

 官兵衛が、赤松を討たぬは武家の恥と言ったのと対照的です。

信長「半兵衛が利につられるか、義にこだわり自分の誘いを断るなら、それもよし。義に生きる男など、この乱世に滅多におらぬ。古びて用をなさず腐りきったものを叩き壊し、新たな世を作る。それがわしの“義”だ」



■赤松が鉄砲を仕入れたらしい


 赤松が数十丁揃えたらしい。ムムっ、これは本当か?もしかしたら仕入れていたでしょう。ただ、鉄砲は相当金がかかるものでした。本体代、弾代、火薬(硝石)代、鉄砲隊の育成費用、いろいろかかります。赤松にそんな財力があったのかどうか。武田信玄でさえも鉄砲隊を大々的に運用していません。

 

■荒木村重との出会い


 荒木村重は重要な人物の一人です。官兵衛にとっても。のちに彼との関係がどうなるかは、今は言わないようにします。先のストーリーをみてご確認ください。

彼は、牢人者として描かれていますが、史実とは多少違うようです。

「天文4年(1535)、摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれた。最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となった。しかし三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握した。

その後、織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573)に茨木城主となった。同年、信長が足利義昭を攻めた時に信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。

天正2年(1574115日に摂津国国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。

その後も信長に従い石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)、紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。」(wikipedia

ただ、ドラマ中に描かれていたように、一国一城の主になってみせると意気込んでいた、その意気込みはあったものと思われます。まあ、ドラマですから。

 

■足利義輝の暗殺


ドラマでは、たとえ剣術がうまくても、多勢に無勢でどうしようもなく、三好三人衆と松永久秀に殺された、というように描かれただけでしたが、実際にはどうだったのでしょうか。

剣術に長けていたのは、塚原卜伝という剣豪から剣術の伝授を受け、免許皆伝の腕前だったといわれているところからきています。ただ、塚原卜伝は北畠具教や細川藤孝などにも授けており、必ずしも奥義を極めたとは断言できないとする説もあります。また、上泉信綱(剣豪だった武将)からも指導を受けたのではないかと言われています。

彼の政治的手腕は「天下を治むべき器用有」(『穴太記』)と評されたように、政治力や外交力があり、幕府権力と将軍権威の復活を着々と進めました。室町幕府の中で、名実ともに光芒を放った最後の将軍といえるでしょう。どんなことをしたかというと、

①諸国の戦国大名との修好に尽力

・伊達晴宗VS稙宗(天文17年(1548年))

・武田晴信VS長尾景虎(永禄元年(1558年))

・島津貴久VS大友義鎮(同3年(1560年))

・毛利元就VS尼子晴久(同3年(1560年))

・毛利元就VS大友宗麟(同6年(1563年))

・上杉輝虎(長尾景虎改め)VS北条氏政と武田晴信(同7年(1564年))

など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行い、将軍の威信を高めようとします。

また懐柔策として、

・大友義鎮を筑前・豊前守護に任命

・毛利隆元を安芸守護に任命

・三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀には桐紋の使用を許可

・自らの名の偏諱(1字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。

例えば、義藤(義輝の前の名前)の「藤」の字を、

・細川藤孝(幽斎)

・筒井藤勝(順慶)

・足利一門の足利藤氏・藤政などに、

「輝」の字を、

・毛利輝元

・伊達輝宗

・上杉輝虎(謙信)

・足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏

などに与えた。

また、足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった

・島津義久

・武田義信

など。

このような経緯を経て、次第に諸大名から将軍として認められるようになり、織田信長や上杉謙信などは上洛して拝謁し、大友宗麟は鉄砲を献上したりしています。

義輝は京都でのキリスト教布教を許しています。正親町天皇は宣教師追放の綸旨を出していますが、足利義輝は無視しています。



■堺の様子


村重がいいます。「この堺では、どんなに腕に覚えがあっても金の力には勝てん。堺では将軍でも大名でもなく会合衆が合議で決めている」と。

堺は自治都市で、東洋のヴェネチアと言われていました。摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)」に発展した街である事から付いたと言われている。戦国時代には環濠都市となり、自治的な都市運営が行われた。その後大坂夏の陣において全焼。現在見られる町割は、元和年間の復興によるものである。

 

鉄砲といえば、今井宗久、ということになっていましたが、実際にはどうだったのでしょうか。

今井宗久は、「永正17年(1520年) - 文禄285日(1593831日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の商人、茶人。千利休・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた。武野紹鴎に茶を学ぶ。やがて紹鴎の女婿となり、家財茶器などをことごとく譲り受けたという。初めは当時軍需品としての需要があった鹿皮などの皮製品(甲冑製造などに用いる)の販売を扱っており、それによって財をなし、各地の戦国大名とのつながりを深めていった。

将軍足利義昭にも茶湯をもって近侍し、織田信長の堺に対する矢銭徴課に当たっては、即座にこれに応じた。永禄11年(156810月、上洛した信長と摂津西成郡芥川で相見え、名物の松島の茶壺や紹鴎茄子などを献上。いち早く信長の知己を得て、足利義昭からは大蔵卿法印の位を授かる。同年、信長が堺に対して矢銭2万貫を課した際、会合衆たちが三好氏の力を背景に徹底抗戦の姿勢を見せたのに対し、宗久はこの要求を受け入れるよう信長と会合衆の仲介を行い、これに成功し摂津住吉郡に22百石の采地をうけた。

これ以降、宗久は信長に重用され、さまざまな特権を得る。永禄12年(1569年)には、堺近郊にある摂津五カ庄の塩・塩合物の徴収権と代官職、淀過書船の利用(淀川の通行権)を得て、元亀元年(1570年)には長谷川宗仁とともに生野銀山などの但馬銀山を支配する。また、代官領に河内鋳物師ら吹屋(鍛冶屋)を集め、鉄砲や火薬製造にも携わった。これらにより、会合衆の中でも抜き出た存在として堺での立場を確実なものにし、信長の天下統一を支えた。また、茶人としても千利休、津田宗及とともに信長の茶頭を務めた。

信長の死後には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)にも仕え、堺の万代屋宗安、住吉屋宗無(山岡宗無)とともに秀吉の御咄衆を務めた。また茶頭として天正15年(1587年)に秀吉が主催した聚楽第落成の交歓茶事北野大茶会にも協力をし、所蔵茶器が第4位を占めた。しかし、秀吉は宗久よりも新興の薬種商・小西隆佐や千利休らを重用したため、信長時代に浴したほどの地位ではなかったと考えられている」(wikipedia 傍線引用者)

とあり、これは史実に沿ったものといえそうです。

 

鉄砲が堺で生産していたということについては、どうだったのでしょうか?

鉄砲は和泉国堺や紀伊国根来・近江国国友など各地で生産され、島津氏や三好氏、足利将軍家など九州・近畿の大名は早くからその充実に力を注いだ。

種子島伝来当初、未知の製法(ネジ・高品質の火薬)が用いられており、国内生産以前、種子島時尭は1丁につき2千両の大金で2丁(計4千両で)購入した。のちに国内生産が可能となり、堺で大量生産されるに至り、価格も下がってくる。この量産化の成功と低価格化が爆発的な普及のきっかけとなった。」(wikipedia

 

村重は「堺の豪商が播磨の田舎侍を相手にしてくれるか。敷居は高いかも知れないが・・・」と言いますが、宗久は「お代を払ってさえ頂ければ一見さんでも鉄砲をお売りします」と言います。

商人は利益になる保証があるなら、誰とでも付き合うということだったのでしょう。

 

ここで、官兵衛は村重と別れます。餞別として村重に多めにお金を与えました。官兵衛は命の恩人だから、としきりに言っていました。命の恩人だっただけではなく、人として信じるに足ると感じたからだと感じました。官兵衛との出会いは創作ですが、命がけで物盗りから助けたこと、戦さの被害の様子をみて「何のための戦争だ、民百姓だけが苦しむ」と言ったことや、生き生きとしていた村重の様子や、天下の情勢をみて大志を抱いている様子だとか、を見て。のちに、村重の顔から笑顔が消えていくことになりますが、それはまたのちほど。



■鉄砲との出会い


官兵衛は「一撃で人は死にます」という今井宗久の言葉に表情を曇らせます。武器だから人を殺すものであることは明らかですが、それを商人が簡単に言ってのけたことに違和感を覚えたのかも知れません。あるいは、なぜそんなことまでして人殺しをしなければならないのか。人を殺すのがそんなに簡単であっていいのか。という官兵衛の想いを暗示しているのかも知れません。官兵衛は殺戮を好みませんでした。極力人を殺さないように配慮していたといわれています。

 

木下藤吉郎(秀吉)が「今のこの堺の栄華は、商人が人を殺す武器を売っていることで成り立っている、なんとも因果なものですな」と言います。

 宗久「お武家さまにはわからないと思いますが、これが堺の商人の戦さなのです。」

 

 結局、堺の賑わいや自由快濶さも兵器を売って儲け、それによって犠牲になっている人たちがいる。無残に命を絶たれる子供たちがいる。現代も世界各地で起きていることです。そんな現実に官兵衛が失望しているようにみえました。

 

■キリスト教との出会い


堺の南蛮寺でキリスト教と出会います。小説の設定で、キリスト教に出会ったのが、若い二十代であったというものがあります(司馬さんの小説もそうだったと思いますし、他の小説にもあったと思います)。

ただ、私自身は二十代に出会ったという史料にお目にかかったことはありませんので、あくまで可能性はあったとしか言えません。拙著「キリシタン武将だったんだよ、黒田官兵衛」では詳しく言及しています(宣伝をせんで・・・ん)。

 

■隣人を愛せよ


フロイスは言いました。隣人を自分のように慈しむのです。そうしたら、この世から争いはなくなるでしょう、と。

争いが争いを呼び、混乱をしている乱世。別に現代でも身に回りに起きていることでしょう。


官兵衛の脳裏にいろんな言葉がよぎります。重隆に言われた、命を粗末にするな、という言葉。一時の怒りや憤りで戦をして死んでしまっては元も子もないという職隆の言葉。きっと幸せになりますというおたつの言葉。これらを思い起こして、“仇討ち”をしてやるという怒りから解き放たれた官兵衛。心は晴れやかになっていく様子が描かれています。自分にいやがらせをした相手、陥れた相手に“やられたら、やり返す、倍返しだ!”というのも元気があっていいですが、それだけでは、そこから先に進めません。簡単に恨みを忘れるなんてできませんが、
それを乗り越えたところに新しい自分がいるのではないかと思います。自分が受けた“よくない”エネルギーを、そのまま社会に返してしまうことが繰り返される。もう止めにしなよ、と諭されているような感じがしました(きれいごとでは済まないのはわかっていますが)。
 
とりあえず、速記しました。これから、できれば追加・修正していきたいと思います。




 
 
 

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