■博多の三傑
島井(嶋井)宗室(しまい そうしつ、天文8年(1539年)- 元和元年8月24日(1615年10月16日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての博多商人、茶人。「宗叱」(読み同じ)とも表記される。名は茂勝。号は虚白軒。神屋宗湛・大賀宗九と並び「博多の三傑」と呼ばれる。
神屋宗湛とは親族関係にあたる。
■海外貿易で富を築く
博多で酒屋や金融業を営むかたわら、明や李氏朝鮮とも日朝貿易を行なって巨万の富を築き上げた。天正元年(1573年)には、当時の博多の領有していた戦国大名・大友宗麟との取引きを開始し、大友氏や対馬の宗氏らの軍資金を調達する代わりに、宗麟から様々な特権を得て豪商としての地位を確立してゆく。また、堺の茶人兼豪商である千宗易(後の千利休)や天王寺屋道叱らと懇意になり、数奇者として朝鮮貿易業者として交歓しあった。
■信長への接近
耳川の戦いで大友氏が没落し、代わって島津氏が台頭してくると、大友氏寄りの宗室は自身の特権が島津氏に奪われることを危惧して当時の天下人・織田信長に謁見して、その保護を得ようとする。この際に所有していた天下三肩衝の一つである茶器・楢柴肩衝を信長に譲ることを条件にしたといわれている。信長は諸外国との貿易を前提に宗室を保護しようとしたが、天正10年(1582年)の本能寺の変で死去したため、この目論見は露と消えた。
■本能寺の変から脱出
信長との茶会を終えて、二人はそのまま本能寺に泊まりました。
そして運命の翌6月2日未明、明智光秀の軍が本能寺に襲いかかります。
宗室は持参した「楢柴」に加え、壁に掛かっていた「弘法大師筆千字文(せんじもん。漢字千字が使われた、漢字練習用の詩)」を、宗湛は牧谿(もっけい。13世紀後半の宋の僧で信長のお気に入りの水墨画家)の「遠浦帰帆図(えんぽきはんず)」を持って脱出しました。
宗室は持参した「楢柴」に加え、壁に掛かっていた「弘法大師筆千字文(せんじもん。漢字千字が使われた、漢字練習用の詩)」を、宗湛は牧谿(もっけい。13世紀後半の宋の僧で信長のお気に入りの水墨画家)の「遠浦帰帆図(えんぽきはんず)」を持って脱出しました。
本能寺の変の際に宗室は空海直筆の『千字文』を持ち出したといわれており、現在『千字文』は博多の東長寺に収められている。
■秀吉との蜜月
信長の死後に台頭した豊臣秀吉の保護を得て、畿内から博多、さらには対馬にいたる交通路を築き上げ、これによって南蛮・朝鮮などの貿易品の取引を行ない、栄華を極めた。また秀吉の九州征伐にも協力している。
○「楢柴」の茶入
本能寺から持ち帰った「楢柴」については、大友宗麟や秀吉の再三の懇願も頑に応じなかったのですが、大友氏に対抗した島津氏方の秋月種実(たねざね)に大豆100俵で半ば脅し取られ(このとき、「楢柴」を受け取りにきた使者をもてなした数寄屋を、使者が帰った後に叩き壊したとか)、九州征伐の際に秋月種実が剃髪して秀吉に降伏した際、秀吉に献上された。最後は家康に授けられたが明暦の大火で消失したらしい。
天下統一後、秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を企むと、大切な通商国と戦争するという利害からこれに強硬に反対し、宗義智と協力して渡朝し、朝鮮国王と戦争回避を図る折衝を行なった。しかしこれは空回りに終わったうえ、秀吉の派兵後も撤兵を強硬に主張したため、遂に秀吉の怒りを買って蟄居を命じられた。後に許された後は、五奉行の石田三成と協力して日本軍の後方兵站役を務める一方で、明との和平の裏工作を行なっている。
○武士は嫌ひ
宗室は町人であることに誇りを持った、気骨溢れる人だったようで、あるとき秀吉に望みを訊かれ、「海の中道より内海(博多湾)を拝領したい」と答えたとか。「ならば武士となって所領するか」と秀吉が言うと、「武士は嫌ひ」と答えたらしい。
■黒田藩
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、博多が黒田氏の支配下に入ると、宗室は黒田長政の福岡城築城などに協力している。
■息子への遺訓
死の直前、養嗣子の島井信吉に対して17ヶ条の訓戒を送っている。商売をやっていく上での17ヶ条の家訓を伝えていて、これが社訓のルーツらしい。
■崇福寺
元和元年(1615年)8月24日、死去。墓地は崇福寺瑞雲庵。宗室の墓がある崇福寺(そうふくじ)は、聖福寺、承天寺と並んで博多の三禅窟と呼ばれている。1600年に福岡に入った黒田長政によって現在の場所に再建された(元の場所には「大宰府別院」が建てられている)。1612年には宗室の寄進で塔頭・瑞雲庵が再建。この縁で、宗室の墓が崇福寺にあるといわれている(瑞雲庵は明治時代に廃寺になったらしい)。
著作に『島井宗室日記』。肖像画は福岡市立博物館所蔵。福岡都市高速呉服町出入口近くに島井宗室屋敷跡の石碑がある。
著作に『島井宗室日記』。肖像画は福岡市立博物館所蔵。福岡都市高速呉服町出入口近くに島井宗室屋敷跡の石碑がある。
ちなみに、崇福寺には、官兵衛と長政以降の福岡・直方藩主の墓、黒田家ゆかりの人々の墓、島井宗室の墓、明治以降に活躍した玄洋社の墓がある。
島井宗室の墓は豪商の墓にしては、質素だが、これは、武士ではない者が金にものをいわせて豪華な墓を作ることをはばかったからではないかと、私は思う。神谷宗湛の墓についても宗室より多少大きいが、さほどでもない。分相応ということをわきまえていたのでしょうかね・・・
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