■おたつの墓参り
官兵衛はおたつを失った悲しみからようやく立ち直ろうとしていたようです。
■治水工事
官兵衛が治水工事の現場に出かける場面。治水工事の対象となったのは、姫路城付近を流れる小さ目の川か市川か夢前川か、あるいは、加古川か(それはない黒田領から外れすぎている)。
この川は昔から暴れ川で、堤防を作れば、米の取れ高も2倍になり、皆の暮らしも安泰になる。母里小兵衛は傳役として官兵衛を養育してきただけに、その成長ぶりに感動しています。これで黒田家も安泰だ、と。
■足利義昭の流浪
義昭は朝倉氏よりも上杉輝虎(のちの謙信)を頼りにしていたらしいです。しかし、輝虎は武田信玄との対立と、その信玄の調略を受けた揚北衆(越後国の東北部の豪族)の本庄繁長の反乱、越中の騒乱などから上洛・出兵などは不可能でした。
なお、朝倉家滞在中の永禄11年(1568)4月15日、「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を招き、ようやく元服式を行って義昭と改名しています。加冠役は朝倉義景。
やがて、朝倉家の重臣であった明智光秀の仲介により、三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長を頼って尾張へ移ります。
弱小勢力である小寺政職や職隆のもとにまで、上洛を促す御内書が届いていたかどうかは分かりません。ただ、義昭が「御内書」と呼ばれる書状を、各地の戦国大名に送って動かそうとしていたことは確かなようです。
■光姫との出会い
櫛橋の領内にいい狩場があるから見てくるように、政職から命じられた官兵衛。
政職は巻狩りに向けて弓を放つ練習をしていますが、途中でにやっと笑います。これは、櫛橋家との縁組をひらめいたって顔ですね。
その後、東に馬を走らせ、通りかかった木から降りられずに泣いている子を発見します。
■ヤマモモ、花言葉は「ただひとりを愛する」
病のおっかあにいいものを食べさせたいシンキチ。おっかあのことが心配で泣き出してしまいます。官兵衛はその気持ちを汲み、自ら木に登ってヤマモモをとってシンキチに与えます。早くに母親を亡くした官兵衛だったからこそ、余計その気持ちがわかったのでしょう。
果たして、ヤマモモは精がつくのか、気になったので調べてみました。
ヤマモモ(山桃、学名:Myrica rubra)は、ヤマモモ目ヤマモモ科の常緑樹。また、その果実のこと。和名の由来は山に生えモモの様な果実をつけることから。別名として楊梅(ようばい)、山桜桃、火実などがあり、古代から和歌などにも詠まれる。名前にモモがつくがモモはバラ科であり、ヤマモモとモモは全くの別植物である。
○食用
果実は甘酸っぱく、生で食べる他、ジャムや果実酒に加工される。農作物として栽培されている。高知県の県の花、徳島県の県の木、知多市、西都市、下松市の市の木に指定されている。また伊豆急行線の各駅では、自動販売機で「やまももドリンク」というやまもものジュースが売られている(伊豆高原地区が実のなる最北端と言われているため)。
○薬用
樹皮は楊梅皮(ようばいひ)という生薬で、タンニンに富むので止瀉作用がある。消炎作用もあるので筋肉痛や腰痛用の膏薬に配合されることもある。
○その他
現在では、むしろ街路樹として公園や街路にも植えられる。殖やし方は接木のほか取り木がある。雌雄異株のため結実には雄株が必要であるが、都市部では街路樹として植栽されている雄株が随所にあるため、雌株の結実性は比較的高い。花言葉は「教訓」「ただひとりを愛する」。
ということで、果実として栄養価は高いほうだと思います。また、花言葉は「教訓」「ただひとりを愛する」ということのようです。官兵衛が「これで仲直りです」とヤマモモを渡しますよね。光の方、ただひとりを愛し、側室を持たなかったといわれる官兵衛の人生を暗示していたのでしょうね。
■とんだ跳ねっ返りだ
官兵衛が初めて光に会ったときに、「跳ねっ返り」と言ってしまいます。
「跳ねっ返り」とは・・・おてんば、おきゃんな娘。女の行動や態度が、活発で軽はずみなところがあること。お転婆とは、お転婆(おてんば)とは、男勝りの活発な女の子をさす。
お転婆娘(おてんばむすめ)と言った表記もある。
光は、官兵衛に名前を聞こうと仕掛けてやめます。官兵衛に惹かれていたんですね。
■巻狩り
獲物をうまく仕留めた職隆に渋い顔をする政職。それをみて職隆は感じます。政職が自分を疑っていることを。
一方で、政職は、官兵衛をほめます。これは、他の描写にもありましたが、官兵衛は自分に手なづきておきたいという意図でしょう。この政職が官兵衛を裏切ることになるんですけどね・・・
政職は自分の子は幼いが、職隆の子官兵衛は立派に育ったことについて、職隆に皮肉を言います。黒田家が小寺家を裏切るのではないかと不安になっていたと描かれています。この時代においては、よほど卑怯なことしない限り、力が強い者が弱い者に取って代わる時代でした。あまりにも“裏切り者”とか“卑怯者”とかいう価値観が強調されていたら、それは江戸時代以降の価値観の混入物と考えていいと思います。江戸幕府や各藩主側からしたら、忠義者を賞美し、裏切り者をこき下ろすことで、忠義をよしとする雰囲気を作り出したかったのでしょう。
政職は外様である黒田家に対して、櫛橋家との縁組で、小寺家との姻戚にしようとしていた、と描かれています。
■櫛橋家って
力は左京進の話を吹き込まれ、官兵衛にライバル心むき出しの左京進に同調していたが、光は自分の眼でみてそんな人間ではないことを見ぬいています。
櫛橋家は、小寺家の姻戚であったと描かれていますが、番組最期の”紀行“において、志方城(加古川市志方町)を居城とする豪族でした。
■職隆、隠居する
政職自ら仲立ちをしたのは、義昭公のご内書の一件は落着?いや、むしろ黒田家の存亡の危機。なので、わしが家督を譲る。政職の疑いを晴らすため。
拙著「キリシタン武将 黒田官兵衛 天の巻(上巻)」から、次の一節を紹介したいと思います。
「3.一般的な隠居の意味
ここで、隠居の意味って、そもそも何だろう?確認してみよう。隠居(いんきょ)とは、「戸主が家督を他の者に譲って、隠退すること。または家督に限らず、それまであった立場などを他人に譲って、自らは悠々自適の生活を送ることなどを指す。もしくは、第一線から退くことなど。隠退(いんたい)とも言う。」などと辞書には書かれている。
隠居したからと言って、それで悠々自適の生活を送って(楽隠居)、第一線から退くとは限らない。
たとえば、室町幕府では、第3代将軍・足利義満が1394年、まだ9歳の嫡男・足利義持に将軍職を譲って出家し、居所も北山御所に移している。しかし義満も1408年に51歳で死去するまでは、政治の実権を握り続けた。
信長は、順調に天下布武を進めていた1576年、嫡男の織田信忠に家督を譲って隠居し、居城も岐阜城から安土城に移している。しかし家督は譲ったといっても、信長は1582年に本能寺の変で死去するまで、政治の実権を握り続けており、信忠の家督相続は形式的なものに過ぎなかった。一説では、信長が存命中から後継者の立場を明確にしておきたかったため、信忠に譲ったのだとも言われている。なお、信長は隠居後、「上様」という呼称を用いている。
そのほかの戦国大名では、後北条氏の歴代当主のほとんどが存命中から隠居して、家督を次代に譲って、次代の体制作りに務めている。
江戸幕府を開いた徳川家康も1605年、つまり将軍職に就任してからわずか2年で、三男の徳川秀忠に将軍職を譲って居城を駿府城に移している。ただし、これは将軍職が以後は徳川氏によって世襲されるものであるということを諸大名や朝廷に知らしめるために行われただけであり、家康も信長と同じく、死ぬまで政治の実権は握り続けていた。現に、家康は存命中に将軍職は譲ったが、「源氏長者」の立場は決して秀忠に譲らなかった。
このように、自分が一線を退いたら、権力基盤が揺らいでしまい、せっかく自分が築いてきたものが崩れてしまうから不安で一線を退けない、とか、あるいは権力から離れられないなどの理由で、形式上隠居しても実質的に力を持ち続けたのであった。」(傍線引用者)
職隆は、永禄10年(1567)頃、息子の孝高(官兵衛・如水)に家督を譲り姫路城の南東に位置する国府山城に隠居しました。このとき、職隆43歳、官兵衛21歳。官兵衛も長政に家督を譲ったのが、44才(そのとき、長政22歳)。ほぼ同じ時期ですね。官兵衛は父にならったのでしょう。
■西美濃三人衆の調略
西美濃三人衆の調略で、美濃攻略ができたような感じで描かれていました。
西美濃三人衆って・・・なに?美濃斎藤氏の有力な家臣だった稲葉良通、安藤守就、氏家直元を指した総称です。
稲葉、安藤、氏家の連名による文書が残されており、斎藤家において重要な立場をこの三者が占めていたことが窺われます。この三者に加えて不破光治が連名している文書もあり、このため、光治を含めて美濃四人衆と呼ぶこともあります。また、安藤、氏家に加え、日根野弘就、竹腰直光、日比野清実、長井衛安が連名して署名している文書も見つかっており、彼らを称して斎藤六宿老と呼ぶこともあります(これには稲葉は含まれていません)。
三人衆は斎藤龍興の代に相次いで斎藤氏を離反し、新たに美濃の領主となった織田氏の配下に入ります。織田氏の元では、織田信長の直属軍として転戦しています。本能寺の変後、旧領復帰のため蜂起した守就ら安藤一族を討伐したのはかつての三人衆の同僚であった稲葉一鉄(良通)であったようです。
■稲葉山城の陥落と上洛戦
○美濃攻略
斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利(森部の戦い)。織田家は優位に立ち、斎藤氏は家中で分裂が始まる。
永禄7年(1564年)には北近江国の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・お市を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏とも戦っている。
永禄9年(1564年から1565年)、竹中重治と安藤守就が稲葉山城を占拠後、加治田城主佐藤忠能と加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れ(中濃攻略戦)、さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった(稲葉山城の戦い)。ときに信長33歳。このとき、井ノ口を岐阜と改称している。
同年11月には僧・沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめており、本格的に天下統一を目指すようになったとみられる。11月9日、正親町天皇は信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが、信長は丁重に「まずもって心得存じ候」と返答したのみだった。
○中央情勢
中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。
久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(足利義昭)の暗殺も謀ったが、義昭は一色藤長・和田惟政ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾した。
○武田氏との外交
美濃国において領国を接する甲斐国の武田信玄とは信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結んだが、遠山夫人は永禄10年(1567年)11月、武田信勝を出産した直後に早世したため、同年末には信長の嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。
永禄12年(1569年)には、将軍足利義昭と共に武田氏と越後上杉氏との和睦を仲介した(甲越和与)。
○足利義昭上洛の警護
永禄11年(1568年)9月、信長は他国侵攻の大義名分として将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の猛攻を受け、観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した。
信長が上洛すると、三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好家勢力のうち、三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡する。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。
足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、和泉一国の守護への任命の恩賞だけを賜り岐阜へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。のちに、足利義昭は毛利輝元にも足利家の桐紋を与えている。
永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた。もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。
1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長は堺に2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して堺の会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。
■天下布武
○天下布武の意味
天下布武、天下に武を布く、天下を統一して新しい秩序を作り出す、というのが、家中の共通目標となっていた様子が描かれています。現代においても共通目標を掲げ、それが社内に浸透している会社は強いですよね。
しかし、明智光秀(春風亭小朝)は浮かない顔でした。これは、のちの本能寺の変を暗示したものだったと思います。
○官兵衛と天下布武
官兵衛が天下布武のことを知っていたことが描かれていますが、本当に知っていたのでしょうか?第1回でも桶狭間の戦いのことを、広峰神社の御師を通じて情報を得ていたことが描かれていますから、今回も知っていたという風に描かれています。
■竹中半兵衛
■子の将来が気になる政職
官兵衛は信長が岐阜で楽市楽座を行っているのを聞いて、感心し、それを政職に言いますが、政職が浮かない顔で、息子を見つめています。
政職「もの好きじゃのう、それでは商人が潤うだけじゃ」
官兵衛「人が集まり、国が大きくなります」
政職「それよりも・・・」
政職は遠くの国で起きていることよりも、目の前のことにしか目が向かないようです。官兵衛をわが子のように思っていると言う政職。職隆に代わって自分を支えてくれると信じていると、上から言う政職。斎の兄だという、政職。命に代えても斎を守ると誓う官兵衛。
子の斎(のちの氏職)を頼むと官兵衛に訴えます。官兵衛は命にかえても守ると誓います。その言葉は本当でした。のちに、三木合戦で別所家と同調して毛利方についた小寺政職は、三木城落城後に出奔して毛利家を頼って、備後国鞆の浦に落ち延びます。それを、職隆や官兵衛は、秀吉に命乞いをして、政職・氏職親子は帰郷が叶います。また、官兵衛は氏職を家臣として召し抱えます(氏職はこのあと、黒田藩士となります)。
■楽市楽座って、意外に知らない
政職と官兵衛の会話の中で、出てくる楽市楽座。信長がとった楽市楽座政策って、日本史でも習ったと思いますが、もう少し突っ込んでみてみましょう。
楽市楽座政策とは、既存の独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ商工業者(市座、問屋など)を排除して自由取引市場をつくり、座(組合みたいなもの)を解散させるもの。中世の経済的利益は座・問丸・株仲間によって独占され既得権化していましたが、戦国大名はこれを排除して絶対的な領主権の確立を目指すとともに、税の減免を通して新興商工業者を育成し経済の活性化を図りました。
ただ、信長が創作した政策ではなく、天文18年(1549)に近江国の六角定頼が、居城である観音寺城の城下町石寺に楽市令を布いたのが初見とされています。また、今川氏真の富士大宮楽市も、翌年の織田氏など以後の大名による楽市令などに影響を与えられたようです。
織田信長は、自分自身が美濃国・加納、近江国・安土、近江国・金森に楽市・楽座令を布いただけでなく支配下の諸大名に伝達され、各城下町で実施されました。
○欠点
この時期に問屋業者が増え、店自体の売上が均一化し、多くのぬけ荷品が闇市場に並ぶといった所があげられます。それらの欠点は豊臣秀吉時代の末期には露呈します。また、領主と特定の商人が関係を結んで御用商人化し、領主の命令を受けて座に代わって市場の支配権を得る例も見られました。これらは欠点と言うよりは規制緩和としての楽市楽座が不完全であったこと、また楽市楽座が相当な利益を商人にもたらし、制度としてのインセンティブ設計が成熟していなかったことを意味します。
更に近年では中世日本の都市を中世西欧の自由都市と比較しようとして、楽市・楽座そのものを過大評価しているとする批判もあります。そもそも楽市自体が城下町や領内の主要都市に商人を集めるための政策であり、大名がこうした地域に対して何らかの統制を意図しなかったとは考えられないというものです。また、一見して商人による自治を認めながら、実際にはその自治の責任者の地位にいるのは大名の御用商人や被官関係を結んで商人司など大名が定めた役職に任じられたものであり、商人司を通じて大名の経済政策に沿った方針が浸透していたと言われています。更に織田政権が楽市・楽座を推進する一方で座の結成・拡張を図っている事例もあります。例えば越前国足羽郡で薬屋を営んでいた橘屋は、朝倉氏の滅亡後に織田信長から北ノ庄などで唐物を扱う唐人座と絹織物を扱う軽物座の責任者に任じられて役銭を徴収し、天正4年(1576年)に北ノ庄に楽座令が出された際には先の信長の命令を理由として両座に対する安堵状が出されています。つまり、楽市楽座は一見上は規制緩和を掲げながら、実態は大名による新たな商業統制策であって江戸時代の幕藩体制における商業統制の先駆けであったとする指摘もあるようです。
■力の狂言自殺
ウソ泣きする力。力は、このあと播磨西部の上月城主上月景貞に嫁ぎます。上月城は秀吉に攻められ、夫は亡くなってしまいます。「黒田家に嫁ぐくらいなら、私尼になります」と言っていた力は、このとき本当に尼となり、官兵衛に引き取られ、光の方とともに生きることとなります。
■父との会話
父に自分はまだ若く家督を継ぐのは難しいと訴えます。しかし、職隆は黒田家の生きる道はそれしかないと決断していたので、官兵衛を説得にかかります。黒田は立派な跡継ぎを持っていると、皆が言う。大丈夫だ、お前ならやれると。
官兵衛、涙します。その涙の意味は?こんなに父上は政職に仕えているのに、なんで政職は分かってくれないんだ、という悔し涙か。
■初夜
○お互いを受け入れる
お互い、はじめて出会ったときの第一印象がよかったようですね。光は、自分はサバサバした性格で女らしくないと言いますが、官兵衛は、自分の気持ちをはっきりいうことはよいことだと、光を受け入れます。何気ないことですし、恋する男女がささやく愛の言葉なのかも知れませんが、日常生活に置き換えてみると、相手を受け入れることって簡単ではないですよね。
目についたとこが、やがて鼻につき・・・なんてことにならないようにしていきたいものです。
○おたつのことを好きだったと告白する官兵衛
光「信じられませぬ。初夜に他の女子の話など」
ですよね、嫌われますよね。大恋愛した女の子の話なんて、奥さんにするのはちょっと。しかも、これから初夜だというときに。
しかし、官兵衛は隠し事をしないと誓い、その気持ちを光も汲み取ります。
○おたつの墓に祈る官兵衛
その傍らには、光の姿がありました。それを遠くからみる伊吹善右衛門。善右衛門はすべてを察したのでしょう。おたつのことを光にもちゃんと打ち明けたことを。
しかし、気になった点が一つ。最期の二人の後ろ姿。光の姿が・・・あれ、中谷美紀さん???スケジュールが合わなくて別の人にすり替えた?もしかして、おたつ(南沢奈央さん)に代わっていた???目の錯覚でしょうか。おたつに代わっていたとしたら、何を意味しているのでしょうか。
おたつの魂が官兵衛に寄り添っていることでしょうか。
■志方城
志方城は現在の兵庫県加古川市志方町にあります。
志方町は姫路から東に15kmほど行ったところにあります。徒歩で2時間くらいでしょうか。別所家の三木城と姫路城や御着城の中間に位置しています。別所家は播磨東部で大きな勢力を誇っていたので、櫛橋家はその前線で非常に重要な位置にあったと思われます(今後、もっと正確に確認しますが、大河ドラマでは別所家の扱いが薄いので、知らなくてもいいかも知れません)。
志方城の本丸は現在、観音寺となっています。同寺は曹洞宗ですが、櫛橋家の宗旨は浄土宗だったと思われます。現在の観音寺は、志方城落城の後、天正十五年(1587)、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために城の本丸跡に禅寺を建立したのが始まりです。
光は官兵衛がキリシタンに受洗しても、官兵衛は改宗を強制していませんので、光は実家の宗旨を変えないまま、黒田家が豊前に入封時には中津城下に合元寺(浄土宗)を移築します(姫路から移築)。また、筑前入封後に、博多に円応寺(浄土宗)を建てます。秀吉の播磨平定戦で、毛利方についたため落城します。官兵衛の助命嘆願により櫛橋則伊は許され家臣となりました。
一説には、櫛橋左京亮は官兵衛を見込んで光姫を嫁がせたとも言われています。左京亮は官兵衛に甲冑を贈ったとナレーション。そのときに合子兜?を贈った?ほんと?合子兜って、官兵衛は関ヶ原のときにしか着ていないのでは?
志方城(しかたじょう)は、播磨国印南郡(兵庫県加古川市)にあった平城で、現在、本丸跡は宝積山観音寺の境内、二の丸跡は加古川市立志方小学校であり、西の丸跡は旧志方町役場であったそうです。
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