神屋 宗湛って、だれ?
■基本データ
(天文20年1月1日(1551年2月6日)~寛永12年10月28日(1635年12月7日))
戦国時代から江戸時代前期にかけての博多商人、茶人。
神屋氏の第6代当主。出家前の諱は貞清。
「神谷」は誤り。←よく間違いに出くわすので要注意です。
島井宗室・大賀宗九とともに「博多の三傑」と呼ばれる。島井宗室とは親族関係にあたる。
■誕生~信長時代
天文20年(1551年)、5代当主・神屋紹策の子として誕生。
神屋氏は代々博多の豪商であり、曽祖父の神屋寿貞は石見銀山の本格的開発に携わった人物であった。
戦国時代の豪商は「武器商人」でもあり、武将の資金援助も行っていた。
天正10年(1582年)、島井宗室と共に上洛して時の天下人・織田信長に謁見した。信長の保護を得ることで、当時九州で日の出の勢いで勢力を拡大していた島津氏を抑えるとともに、豪商としての地位をさらに極めようとした。
信長との茶会を終えて、二人はそのまま本能寺に泊まった。
そして運命の翌6月2日未明、明智光秀の軍が本能寺に襲いかかる。
宗湛は、牧谿(もっけい。13世紀後半の宋の僧で信長のお気に入りの水墨画家)の「遠浦帰帆図(えんぽきはんず)」、
島井宗室は持参した「楢柴」に加え、壁に掛かっていた「弘法大師筆千字文(せんじもん。漢字千字が使われた、漢字練習用の詩)」
を持って脱出。
宗湛は、牧谿(もっけい。13世紀後半の宋の僧で信長のお気に入りの水墨画家)の「遠浦帰帆図(えんぽきはんず)」、
島井宗室は持参した「楢柴」に加え、壁に掛かっていた「弘法大師筆千字文(せんじもん。漢字千字が使われた、漢字練習用の詩)」
を持って脱出。
天正14年(1586年)、再度上洛して今度は畿内の諸大名や堺の大商人・津田宗及らと親交を深めた。同年、大徳寺にて出家し、宗湛と号した。
■秀吉時代
天正15年(1587年)、天下人となった豊臣秀吉に謁見した。秀吉に気に入られ、豪商としての特権を与えられて以後は博多商人の第一人者として栄華を極めた。秀吉の九州征伐においても資金面で援助している。文禄元年(1592年)から始まった朝鮮出兵においても後方兵站の補給役を務め、晩年の秀吉の側近として活躍した。
■没落
しかし慶長3年(1598年)に秀吉が病死し、その後に天下人となった徳川家康からは冷遇された。家康に冷遇された理由には、秀吉達や秀吉のブレーンとの繋がりがあったと考えられる。そして関ヶ原の戦いの後に黒田長政が移封されると、宗湛は天下の大商人から黒田氏の御用商人にまで成り下がった。
老齢ということもあって、以後は豪商としての活躍も無く、寛永12年(1635年)10月28日に病死した。墓所は福岡市の妙楽寺。
■著作
著作として『宗湛日記』がある。これは宗湛が秀吉時代に活躍したことをまとめた茶会記である。後世の偽書とも疑われるが、豊臣政権の内部を知る上では貴重な史書の一つともされ、また津田宗及の『天王寺屋会記』、今井宗久の『今井宗久茶湯書抜』、松屋久政の『松屋会記』と並ぶ四大茶会記ともされる。
■『宗湛日記』偽書説
一部に他の日記類と日付の異同があるからと言われるが、誰が偽書説を提唱したのかっていうのは実はよく判らない。茶道界では桃山期の史料として相変わらず重視されているようだ。
『黒田如水伝』において、官兵衛がどこで亡くなったかの史料の一端として、引用されている部分がある。
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