今回も気づいた点をつれづれに書いていこうと思います。
■小寺領や広峰神社が“野武士”に襲われますが、「野武士」って何でしょうか?
辞書に載っている意味は、「野武士南北朝・室町時代、農民の武装集団。山野に潜伏し、物資を略奪し戦闘にも参加した。戦国時代に大名などが徴発し、戦闘に参加させた者をもいう。のぶせり。」(Weblio辞典)
「戦国時代、戦により行き場を失い盗賊と化した野武士(作中では「野伏せり」)の一団がある農村を狙っていた。村は前年も野武士に襲われ略奪の憂き目にあっていた。麦が実ったらまた村を襲うことに決めて去る野武士を偶然居合わせた村人が目撃していた。村が絶望に包まれる中、利吉という若い百姓が我慢の限界に達し、野武士を皆突き殺すべきだと主張する。村人の相談を受けた長老の儀作は村を守るために侍を雇うことを思い立つ。」(Wikipedia七人の侍)
この映画では、野武士に一方的にいじめられる農民たちと、その反抗に加担する武士たちという構図で描かれています。
しかし、戦国時代は農民、武士、職人、商人という身分制度はなく、農民と武士の境界線が明確ではありませんでした。純粋な武士ではない“農民”たちも気に入らない領主に対しては武器をもって反抗していました。山城国一揆などがその典型です。
「山城国一揆は、文明17年(1485年)、山城国(現在の京都府南部)南半の上三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行った事をいう。」(Wikidipedia)
一方で、野武士たちは、特定の家に仕えず、人が汗水垂らして作ったものを力ずくで奪っていくものたちで、一年中略奪行為で生計を立てていたかどうかは分かりませんが、“泥棒”だったわけです。戦国時代の野武士は現代の日本にはいないと思いますが、現代の我が国には“野武士”的なものはたくさんあると思います(人が汗水垂らして作ったものを力ずくで奪っていくものたち、です)。その“野武士”的なものに対して、絶望しつつも、武器をとって戦うときがきているのかも知れません(別に、アナーキズムを主張しているわけではありません)。どう行動するかは、あなた次第。
■石川源吾がやばい
石川源吾は、評定の場で職隆をかばったりして、一見仲間かと思いきや、実は赤松家のスパイというか調略を受けて、小寺家中に混乱を起こさせる役目を追っていました。戦国の世はそのようなことが日常茶飯事で、職隆も源吾を簡単に信用していなかったと思います。
平和な現代日本でも、そのような“スパイ”はたくさんいます。人を疑ってかかるのもどうかと思いますが、健全な懐疑心は必要でしょう。
■職隆のリーダー論
職隆といわが宵に二人で会話する場面があります。夫婦仲がよかったようです。いわはお漏らしするほど真剣に伊吹善右衛門の話に夢中だったことや、善右衛門からもらったビードロを母にくれた官兵衛の優しさを話し、職隆は優しいだけでは大将は務まらん、と言います。職隆は、病弱ないわに酒を勧めています、少しでよい、一緒に飲みたいのだと。
このときふと頭をよぎったのは、のちに官兵衛が言う、リーダー論です。官兵衛はいいます。リーダーシップとは、単にやたらと威張り散らして部下を恐れさせることではない、そんなことをしたら部下は誰も諌める者がいなくなってしまう。単に、リーダーが自分の行いを正しくしていけば、それだけで部下たちはリーダーを畏敬し、規律正しく行動するようになるものだ、と。
人の行動の原動力には、“恐怖”と“愛”とあって、「・・・しなくちゃ怒られちゃうからしよ」というのが“恐怖”で、「・・・したい、そうした方が楽しいはず」というのが“愛”。リーダーシップも同様で、人を恐怖で動かすのか、愛で動かすのか。愛で動かすのがよい、と官兵衛は言っているように感じました。みなさんはリーダーとして、あるいは、人を動かす立場の時、どのようにして人を動かしていますか?
■明石氏(いわ)は和歌上手?
官兵衛の生母いわは明石宗和(正風)の娘で、宗和(正風)は隠月斉の号を名乗り、関白・近衛稙家・前久父子の歌道の師範だったといいます。武家にして、公家に歌を教えるほどの腕前でした。
その娘、やがて官兵衛の母となる岩姫も都育ちで父の薫陶を受けて育っていますので、和歌の道に通じていたことでしょう。
しかし、その点は再三申し上げているとおり、とうとう描かれませんでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿