2014年2月10日月曜日

NHK大河ドラマ軍師官兵衛 気づき まとめNUMBER 第6回2014年2月9日(日)


今回は、黒田家の結束、側室をもつかどうか、信長が賭けに勝利し室町幕府滅亡、いよいよ播磨が係争地になる予感がテーマでした。合戦シーンはありませんでしたが、わかりやすい内容でしたね。もちろん、個別には信長と義昭の関係が悪化する時期が多少おかしいとか、信長が敦盛を舞ったのは桶狭間の戦い前だとか、荒木村重がスピード出世しているとか、官兵衛周辺以外の描き方は荒い面がありますが、時間と予算の関係でやむを得ないのでしょう。

それでは、個々の切り口をみていきましょう。

■比叡山の焼討ち


なぜ信長が焼討ちをしたのか?拙者のブログの記事をご覧ください↓


ただ、映像でのイメージのように山全体を焼き尽くしていたということには異説があります。

■黒田高友(休夢)


 1525年生まれ、黒田職隆の弟で、官兵衛の叔父。出家して休夢と称し、増位山の地蔵院(多数の坊舎が立ち並ぶ大寺院)に住んだと言われる。和歌に秀で、官兵衛の生母である明石宗和の娘(いわ)とともに、官兵衛に文人としての影響を与えた。

 増位山は三木城の別所長治との間で度々戦場となり、1573年、休夢が守る有明山城が落城し、さらに増位山が攻められ、寺塔をことごとく破却している(のちに秀吉が再興)。

 秀吉のお伽衆となっているが、それはまた後日。

■二人目が生まれないことへの周囲からのプレッシャー


長男5才。二人目が生まれないことに周囲からのプレッシャー。休夢がくれたうなぎ。

精の付くものとしての「ウナギ」は奈良時代から有名だったようだ。

二人目が生まれるのは、さらにその13年後。

結婚したのが、官兵衛22歳、光の方15歳。

永禄11年(1568年)孝高23歳のとき、長男長政誕生。

次男熊之助が生まれるのが、その13年後、天正9年(1581年)孝高36歳、松寿丸14歳のとき(『黒田家譜』)。

側室をすすめる光の方。これは戦国の世の習いでしょうか。現代人の感覚としては、あり得ないことですが、当時としてはやむを得ないことだったのでしょう。

官兵衛が側室を持たなかったのが、キリスト教信仰というよりも、官兵衛の家族観にあったと描いていますね。その点については、拙著「キリシタン武将 黒田官兵衛 天の巻(中巻)」にて詳しく書いていますので、よければご覧ください。
http://kurodakanbee2013.blogspot.jp/2014/01/blog-post_28.html

■上司や同僚たちと諍いを起こす太兵衛


 太兵衛からしたら、負けたら死ぬ、その覚悟がない者たちは、生ぬるい。彼の眼にはシュガー家臣だと映ったのでしょう。彼らをみて、腹が立って仕方がなかったのでしょう。彼自身も、命がけで戦った母里武兵衛の姿をみて、目覚めたのかも知れません。

しかし、なかなか周りに馴染めない太兵衛を、善助は諭します。新参者はもっと周りの者を敬え、と。武兵衛様は立派な武士だった。その母里の名を継いでいるのだぞ。もっとおとなしくしろ、と。

現代の会社でもよくある話ではないでしょうか。私自身も経験がありました。

官兵衛も心配だったと思います。しかし、それはいったん善助に任せる。善助に家中のまとめ役を命じたから。

それを見ていた、井上九郎右衛門。彼はクールなまなざしで、官兵衛に対して、オブラートに包まずに「いささかまとまりに欠ける家中かと」正直に言ってのけます。官兵衛は怒りませんでした。その器量の大きさに九郎右衛門も感じ入るところがあったようです。

■母里の名を返上しろ


 孤立する太兵衛。いたずら半分で、太兵衛が大事にしていた守り袋を奪ったことから、ケンカが始まりました。多数を相手に一歩も引かない太兵衛。

 善助は太兵衛がただの乱暴者で、周囲に馴染めないだけだと勘違いしていました。

守り袋から毘沙門天(不動明王?)が。いずれにしても、仏や菩薩を護る神々の一人です。これは、官兵衛が武兵衛に与えた像でした。それを、武兵衛の死後、武兵衛の母親からもらったとのこと。殿を守るために命をかけた母里家の名前を継いだとき、自分も武兵衛様のようになろうと己れに言い聞かせてきた。その気持ちが全面に出すぎて、いい加減さを許せず、周囲との軋轢を生んでしまっていた。

 栗山善助が誤解していたことを正直に太兵衛に謝ります。わしはまだまだじゃ、人の気持ちがわかっておらぬ、それでは武兵衛様に申し訳が立たぬ、と。

■黒田家の強さの秘密は?


ここに至って、官兵衛の出番。

黒田家の強さの秘密は、家中の強い結束。のちに、善助か後藤又兵衛だったか忘れましたが、黒田家の兵法は七書を読めば十分だと言っていたように、マニアックで理詰めの兵法がコアコンピタンス(強み)ではなく、団結力が大事だと官兵衛は言っています。一人の力は非力だが、大勢が団結すると大きな力になる、と。

そして、結束を固めるために、善助と太兵衛に義兄弟の契りを結ぶことを命じます。善助を兄と思って、善助の言葉を違えてはならぬ、と。

ちなみに、義兄弟の契りといえば、三国志演義で、劉備、関羽、張飛が桃園で契りを交わし、終生固い絆で結ばれていました。義兄弟の契りは男色の初夜みたいなものとも言われていますが、そういう意味の“義兄弟”ではなく、あくまで結束を固めるという意味でしょう。ただ、主君に命じられて“義兄弟”の契りを結ぶのもどうかと思いますが・・・(姻戚関係なら、主君から命じられても違和感ないですが)

 横で聞いていた井上。官兵衛の処置に、ほほ笑む井上。余計なことは口走らない井上。

 櫛橋左京亮の死の報せを、摂津国茨木城(現大阪府茨木市付近)まで、馬を飛ばして自ら報せに来ます。このことも九郎右衛門の、官兵衛への親愛の証でしょうか。その距離約90km。(当時の)馬の脚で2時間あまり。途中で野盗に襲われなければ、いけない距離ではないですね。中国大返しの4割くらいの距離です(笑)

■信長から義昭への意見書(17か条の意見書)


元亀3年(1572年)9月に足利義昭に提出した17か条の意見書を出しています。

○意見書の目的

司馬さんの小説の中で次のような記述があって、意見書の目的を知ることができます。

「(信長は)祐筆をよんだ。

 「条々」といったのは、将軍義昭に発する諫状(いさめじょう)の題であった。十七個条から成るその長大な文章を一気にしゃべった。諌めるの書とはいえ、事実上、義昭の十七の罪を鳴らす弾劾状である。

さらには弾劾状というより、宣伝書であった。義昭その人とめざして言うのではなく、信長は天下の諸侯や人心に義昭の悪を訴えようとしていた。

----かかる悪将軍である。

ということを天下に宣伝し、その後多少の期間を置き「義昭改心せず」としてこれを討つのである。人は納得するであろう。

「おれを陥れようとした」ということは、一語も書かない。まずその第一条に、くれぐれも天皇を尊崇し奉れとあれほど申し上げておいたのに、ちかごろは参内も怠っておられる。けしからぬ、というのである。」(司馬遼太郎『国盗物語』)

といったように、弾劾状&宣伝書だといっています。

○意見書の内容



一、先代将軍 足利義輝様は、天皇へのご機嫌伺いを怠ったため、松永彈正に暗殺されてしまいました。

だから信長は、公方(義昭)様には怠りなく参内なされるよう以前より申し上げてきましたが、公方様にはそのことをお忘れになっております。まったく残念なことであります。

一、公方様は諸国へ御内書を送られ、馬やその他のものをご所望なされていますが、その外聞がいかがなものでしょうか。よくお考えいただきたいものです。

それと御内書を送る際には、必ず信長の添状も一緒に添えることをかねてから申し上げており、公方様からもご承諾いただいたはずなのに、今はそれを忘れられ、遠国へ御内書を送られておられます。

馬がほしいのなら信長が差し上げますのに、そうはせず密かに御内書を送られるのは、よろしくありません。

一、熱心に奉公して忠節心篤い者達に相応の恩賞を与えず、新参のさしたる事もなき者達を優遇されています。

そのようなことでは忠不忠の別も無くなってしまうし、世人の思いもよくないでしょう。

一、このたび公方様は風評に惑わされて、金銀を持って御所を逃げたことは都の人の広く知るところとなり、それによって京都は騒然となってしまいました。

御所の普請も苦労を重ねて、ようやく御安座がかなったというのに、またも何方かへと御座を移そうとなされる。

いかなるお考えによるものでしょうか。これでは信長の苦労も徒労に終わってしまいます。

一、賀茂の神領を岩成友通(三好三人衆の一人)へ与え、土地の百姓を固く糾弾するよう命じておきながら、実際にはそのままにしています。

このような寺社領没収はいかがなものでしょうか。岩成も困窮して難儀していたので、公方様が岩成の申立てをいれて他の訴えには耳を貸さなければ、後日岩成を何かの用に役立てることもできるかと考えて、信長は容認しておりました。

しかし(将軍の)御心がそのようなことであれば、もはやそれも叶いません。

一、信長に近い者達に対しては、女房衆以下にいたるまで辛く当たり、困惑させていると聞いております。

信長と親しい者なら、公方様には一層目をかけられて当然であるべきなにに、逆に疎略に扱われる。これはどうしたことでしょうか。

一、熱心に奉公して何の落ち度もないのに、待遇が悪いため困窮した者達は、信長を頼ってきてはわが身を嘆いております。

信長から言ってもらえば何とかなると考えてのことでしょうから、不憫なので、そのことを申し上げましたが、ただの一人とて善処された者はいませんでした。

それは勧世与左衛門・古田可兵衛・上野紀伊守らの事です。

一、若狭国安賀庄の代官の件につき、粟屋孫八郎から訴訟がありましたが、再三にわたり申立てにもかかわらず無視し続けてこられました。

一、小泉の女房が預け置いていた雑物や質草として置いていた腰刀・脇差までも取り上げてしまったと聞いています。

小泉が何か謀叛でも企てたというのなら、徹底的に追求するのもわかりますが、単に喧嘩をしたにすぎません。

法に従うのは、ごもっともであるが、これほどまで厳しい処罰では、世間に公方様は欲得により処断をなされたと思われてしまいます。

一、信長は元亀の年号は不吉なので、改元すべきとのことを以前より申し上げてまいりました。

朝廷からもその勅命がありましたが、そのために必要な少しばかりの費用を出し惜しんでいるため、今も改元できないでいます。改元は天下の御為ですから、御油断があってはよろしくありません。

一、烏丸光康を勘当し、子息光宣に対しても同様に御憤りになっておられたところ、内々の使いを立ててワイロを上納させ、それで赦免なされてしまいました。

嘆かわしいことであります。人により罪によっては罰金を仰せ付けられるのも道理ですが、烏丸は堂上の人であります。

当節公家にはこのような人が多いのだから、それに対しこのような仕置きをなされては、他への聞こえもよろしくありません。

一、他国より御礼があって金銀を献上してきたのにこれを隠し、政治の用にも役立てようとしません。一体、何をお考えなのでしょうか。

一、明智光秀が、町から徴収した地子銭を買物の代金として渡したところ、公方様は明智が山門領の町から銭を徴収したと言って受取主を差し押さえてしまいました。

一、昨年夏、幕府の御城米を売却して金銀に換えてしまわれたが、公方様が商売をなされるなど、今だかつて聞いたことがありません。

近ごろは倉庫には兵糧が満ちあふれているのに、そのような次第となったことを知り驚いております。

一、御宿直当番の若者に、手当を加えたいと思われたなら、その場その場で与えるものはいくらでもあるのに、代官職を与えたり、あるいは非分の公事をあたえております。

これでは天下の非難を浴びることは避けられません。

一、諸侯は武具・兵糧のほかに嗜みはなく、もっぱら金銀の蓄えに励んでいます。これは浪人した時の備えのためであります。

上様も以前より金銀を蓄えておられたが、先日洛中に妙な風説が立った際にそれらを持って御所を出てしまわれたため、下々の者は公方様が京を捨てて浪々するものと誤解してしまいました。上に立つ者は、行いを慎んでいただきたいものです。

一、諸事につき欲が深く、理も非も外聞も気にかけられぬ公方様と世間は言っております。そのため、何も知らぬ土民百姓までが悪将軍と呼んでいます。

普光院(足利義教)殿がそのように呼ばれたと言われていますが、それならば格別な事であります。

何故そのような陰口を言われるのか、よくお考えになって、御分別を働かせていただきたいものです。

まあ、こんなことを一々意見されては叶わないことだったでしょう。

足利義昭と信長はすでに不仲であり、義昭は各地の大名や武装勢力に「御内書」を送って、信長討伐を命じています。形だけでも、征夷大将軍の権威はあり、義昭の命令を口実をつけて無視することもできましたが、大義名分として兵を集めることもできました。

そして、甲斐の武田信玄が動きます。信長は信玄を恐れていた、というのが一般的な見方ですが、実際にはそんなに武田軍が強かったかどうか微妙です。経済力が信長よりはるかに劣っていたからです。

甲斐22万石、信濃40万石で合計せいぜい62万石。金山も枯渇しつつあったと言われており、兵農分離していませんでした。一方、信長の勢力は200万石以上あり、堺、大津、草津などの商業地をおさえており、常備軍をもっていました。信玄が甲斐から伊那を抜け、三河に南下し、尾張から美濃に入るまで、どれくらい時間がかかるでしょうか。しかも、農繁期には領国に引き上げないといけない。とても上洛はおぼつきません。信長が家康(松平元康)に時間を稼がせようとしたのも、それが一番よい方法でしたし、それしかできませんでした。

■信長包囲網


 包囲網は、第1次から3次まで3回設定されました。このうち、官兵衛が直接影響を受けるのは、第3次。今回のドラマの中では、第2次が描かれていました。

 第2次では、全国に門徒をもつ本願寺、越前の朝倉(4050万石)、北近江の浅井(2030万石)、比叡山延暦寺をはじめ、三好氏の残党、松永久秀、南近江の六角氏などのほか、甲斐の武田氏(相模の北条氏も援軍派兵)が包囲網を形成し、信長は四面楚歌に陥ります。

 しかし、信長は先の意見書にもあるように、足利義昭が裏で手を回していることを察知し、「まことの敵は誰だ?そやつらをあぶり出し、火の元を断つ。それまでは寝て待つ」と言っています。

■小寺家の評定


 武田信玄、浅井朝倉、本願寺などを敵として四面楚歌の信長。もう信長の命運も尽きた、と政職が言い、重臣たちも同意しています。

 ただ、日和見を決め込む政職に苦言を言う官兵衛。このことがのちに小寺家を危機に陥れることになります。

■義理の父からも側室を持てと言われる


 当主たるもの、側室の一人や二人当たり前じゃ、娘(光)のことは気にせずに、子供を作ることを勧める櫛橋左京亮。櫛橋左京亮の体調が芳しくなく、そのことを気にしており、死の床にあっても、そのことを口にしたと描かれていました。もちろん、気がかりなのは櫛橋家の行く末だったでしょうが、娘が嫁ぎ先で肩身が狭い思いをしていることも気がかりだったに違いありません。それが親心というものでしょう。

 肩身が狭い思いというのは、女性にとって子供を産むことが重要な仕事の一つだったからで、一人より二人、三人と産んでくれることを期待されていたので、一人しか産んでいないというのは期待に十分に応えているとは言えません(と描かれていました)。

■敦盛


 信長は義昭の挙兵を待ちます。そのときこそ義昭殲滅のときだと言っています。将軍に弓をひくことには変わりないんですけど・・・

濃姫の前で敦盛の一節を舞っています。ドラマでよくあるのは、桶狭間の戦いの前に舞うことが多いです。太田牛一の『信長公記』に書かれているからです。ただ、信長はこの一節を含めて好きでよく舞っていたので、今回も命を賭けて舞ったということなのでしょう。

「敦盛」(あつもり)は、幸若舞の演目のひとつです。作者と製作年は不詳のようです。敦盛は平家の一族。平敦盛が一の谷の戦いで、源氏方の熊谷直実と一騎うちをし、直実が首を討ってみると元服間もない16歳の少年であったことにショックを受け、呟いたという設定。

「思へばこの世は常の住み家にあらず

草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし

金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる

南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり

人間(じんかん)五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

一度生を享け、滅せぬもののあるべきか

これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」

傍線部分がドラマでよく出てくる節。

正しい意味は、「人間界の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」。ほんの一瞬の命に過ぎない人間界で、明日死ぬかもしれないとか、グダグダ心配してもしょうがない。人事を尽くして天命を待つ。ダメなら死ぬだけだ。っていう感じでしょうか。

ちなみに、熊谷直実はこの事件で無常を観じ、出家して法然上人に弟子入りし、出世の本懐を果たしたと言われています。

■信長の賭け


 信玄が来る前に、(京都に)火の手が上がるのを待つ信長。人はいずれ死ぬ、命をかけて待つと秀吉たちに言い、岐阜に帰ります。

竹中半兵衛は、信長がじっと動かない意図を見抜いていました。実際には動けなかったのもありますが。

秀吉「さすが半兵衛。一個くれ(アドリブ)」

このあと、足利義昭が槇島城で挙兵します。その場には明智光秀がいましたが、その頃には実際には織田家の家臣となっていて、ドラマ的にその場にいたことにしたのでしょう。幕府の復活と権力基盤の確立に腐心する姿として。

また、義昭自身が挙兵するのは、武田信玄に催促されたから、だとも言われており、信玄に挙兵を促したのは義昭だが、義昭も陰に隠れていないで出てこい!この野郎、元気ですか!みたいな(笑)

かつて京都宇治にあった巨椋池という巨大な池沼に浮かぶ島が槇島で、そこに槇島城はありました。幕府奉行衆であった真木島昭光を頼り、義昭は槇島城へ籠城しました。しかし、京都近辺にはこれと言って天然の要害がなく、信長は「二日」で落としたとドラマで言っていました。

その後、義昭は河内国若江城へ退去させられ、名実ともに足利幕府は滅びます(1336年~1573年)。

ちなみに、第2次信長包囲網の一角であった信玄は浅井・朝倉らに信長への対抗を要請します(東西から挟み撃ちにする戦略)。遠江国、三河国方面に進撃を開始。遠江国三方ヶ原において、信玄は家康を打ち破ります(三方ヶ原の戦い)。

順調に西上していたかに見えた武田軍でしたが・・・ここで盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景がなぜか撤退!信玄は義景に再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとしませんでした。歴史上の戦いでなぜか撤退ということはしばしばあります。チャンスを逃しつづけた朝倉義景は後世の評価が低いです。

信玄は軍勢の動きを止め刑部において越年。元亀4年(15731月には三河に侵攻し、210日には野田城を落としています(野田城の戦い)。しかし、信玄に死期が迫っていました。野田城で甲斐への撤退を決まり、引き返している途中で亡くなります。信長にとって、多少ライバルらしいライバルが消えた瞬間でした。

■荒木村重が信長に拝謁


 村重は摂津の豪族池田氏に仕えていましたが、この混乱に乗じ池田家中の実権を握り、その後、将軍足利義輝を擁した三好氏に鞍替えし、さらに、三好氏凋落後は信長に鞍替えしています。

その変節ぶり、口車に簡単には乗らない信長。

「よく回る口じゃ。食え」と刀に差した饅頭を食べさせます。拒否したら斬られる状況。村重は屈辱に耐え、犬のごとく喰らいつきます。その姿を見た信長はからからと笑い、村重を信用したようです。「摂津一国切り取り次第」好きにせよ、と。切り取り次第というのは、官兵衛も後年九州関ヶ原で家康から「切り取り次第」にしてよいとの内諾を得たと言っていますが、自分が広げた領地はそのまま与えるという意味です。

官兵衛に対して、村重は、「信長は人を惹きつける何かがある」とか、「天下取りのお手伝いができてうれしい」と言っていますが、信長のカリスマ性に感じ入ったのでしょう。現代でもこの経営者についていこうと会社で頑張る、しかし、しばらくすると「人遣いが荒いこと」や「失敗を許さない」経営者にうんざりして、辞めていく。村重の場合には、会社を辞めるだけでは済まず、謀反ということになります。

その謀反に官兵衛も巻き込まれていくことになります。

土田(どた)御前


 仏間で祈る土田御前。夫信秀や信長に討たれた信行の菩提を弔っていたのでしょうか。濃姫が声をかけます。いったいいつまで過去の恨みや憎しみにとらわれているんですか?

 御前は、殺戮を繰り返す信長を許す気にはならない様子でした。

 濃姫はカラッとした人物で、信長に好意をもっていたように描かれています。大河ドラマ「信長―KING OF JIPANGU」では、仲が悪かった。濃姫との間には子がなく、信長の嫡子信忠や信雄は生駒の方(側室)の子でしたので、その嫉妬で身を焦がしていた濃姫像。

 今回は、そんな気配が全くありません。

 ちなみに、土田御前の呼び名となった土田氏説である土田氏が美濃可児郡の土田であれば「どた」、尾張清洲の土田であれば「つちだ」となるようですが、大河ドラマでは前者「どた」を採用しているようです。

■新参の家臣に摂津一国!


 成果主義をとったことが織田家の強みの一つだったといわれています。力があればどんどん出世できれば、家臣たちの努力を引き出せる。長く勤めている人が評価されるのではなく、明確な成果を出した人の方が評価される組織は強い。それを強烈にやると、古参の社員の反発にあうこともありますが、信長の場合には絶対権力でそれをやりました。

 筆者の経験でもありますが、会社の成長に合わせて社員も増え、よりよい人材が集まってきます。古参の社員も成長していけばいいのですが、そう簡単にはいきません。新参者との軋轢が生じて、経営者としてはどちらも捨てるわけにはいかず、苦労する・・・

 伊吹善右衛門の甥、文四郎がやってきて、荒木村重が摂津の国主になったことを知らせます。このようにして諸国の情報をつかんでいたことはすでに描かれていました。善右衛門はいずこへ・・・毛利の情報を集めに西国に出かけたんでしょうか?

■村重との再会

 己れの才覚で、と言いたいところだが、運がよかったのだ、と笑う村重。この笑顔が村重にあるうちは、よかった。しかし、この笑顔が消えたとき、大変なことが起きることになります。

 城持ちになったら、この金を十倍にして返すぞと言っていた村重。もちろんお金ではなく、信長への取次という形でかえってくることとなりました。

■茶室


 村重が茶室に入ります。いいものをみせてやろうと箱から取り出し茶碗。いいものだと、お世辞をいう官兵衛でしたが、はっきり言って価値がわからない。千利休からもらった高麗茶碗と言われてもわからない。茶道具一つで城が一つ買えると聞いて驚きます。後年、茶の湯を趣向する官兵衛ですが、まだ、茶の湯の効用を理解する段階ではなかったようです。

 この村重の茶碗は、彼がのちに有岡城から落ち延びる際に後生大事に持っていきました。妻、子、一族などは磔になっているというのに・・・

■妖艶なダシ


 村重の妻だしの妖艶な舞。私は賢い方が好きだとウインクするダシ。ドキドキする官兵衛を見て、ちょっと心配になる善助と太兵衛でした。

 ダシというのはキリスト教の洗礼名とする説もありますが、多分違います。時間がないので、簡単に言うと、村重がキリスト教徒を迫害していたからです。

 ダシは今楊貴妃と言われるほど美人だったようです。信長の側室の生駒の方の、先夫との間の子がダシだったともいわれています。

また、後年名槍日本号を呑み取る太兵衛が、その呑みっぷりの片鱗をみせていましたね。

■信長と誼を通じていた方がよい


 村重は官兵衛に信長と誼を通じておいた方がいいと言いますが、官兵衛は決めかねている様子でした。ただ、播磨がいよいよ大国同士の戦場になってしまうことに危惧を覚えているようでした。

 史実では、官兵衛は上洛した信長につくことには懐疑的で、小寺家で親信長派の家臣を上意討ちしています。ただ、信長が長篠の戦いで武田勝頼を粉砕すると、家中を信長につくことでまとめます。

■櫛橋左京亮の死


 櫛橋左京亮の死は妻光だけではなく、官兵衛にとってもショックなことだったようです。左京亮が子が一人しか成せないことを心配していたことを聞いた光は悲嘆します。

しかし、官兵衛は、「焦るな、光。まだ見ぬ子より、今ある松壽丸を育てることが大事だ」と諭します。現代人の感覚だと愛妻家、ということになりますが、自分の血を残すという点では非常にリスキーなことでした。もし、長男に何かあったら、一族などから養子をとればいいと考えていたのかも知れません。

■毛利輝元登場


 毛利輝元、吉川元春、小早川隆景が登場しました。毛利元就は死ぬ間際に、輝元、元春、隆景に天下を狙うなと遺言していました。そのため、将軍足利義昭が毛利家を頼って備後国の鞆の浦に逃れたときも、毛利家は義昭を擁して上洛しようなんてことは露ほども思っていませんでした。信長と同盟を結んでいた時期もあります。

 ただ、織田家が播磨、但馬、因幡と迫ってくると、これを見過ごすことができなくなり、第3次信長包囲網に巻き込まれる形で、織田家と雌雄を決することになります。毛利側は瀬戸内海の制海権を握っていたので、当初は有利だったんです。意外ですよね。なぜかというと、仮に織田軍が陸路で西へ西へと攻め入っても、水軍でその背後に上陸して退路を断つことも簡単にできるからです。

 今回の配役では、小早川隆景は鶴見慎吾さん。大河ドラマ毛利元就では、桂広澄役でした。隆景も桂広澄も、備中高松城の戦いに参加しています。

■織田家の戦さぶり


 官兵衛は櫛橋左京亮の死により急きょ姫路に戻りますが、善助と太兵衛に村重の軍に参加して織田家の戦ぶりを見聞するように命じます。

戦後、官兵衛はさすがの太兵衛も肝を冷やしただろうと、善助に聞くと、善助は、織田の大軍をみてから、一人で千人を倒せるようにならねばと、滝と戦っております、と。変わったやつじゃと感心する官兵衛。

■紀行


官兵衛の出自には、2つの説があります。近江源氏の佐々木氏か、播磨国赤松氏か、です。私はあまりその辺には興味がありません。系図なんてお金で買ってどうにでもなるからです。江戸時代に『黒田家譜』を編纂した貝原益軒もこのあたりをヒアリング・現地調査していたみたいで、近江源氏説をとっています。

紀行ではそのあたりに配慮して、唐突に兵庫県西脇市の黒田庄町の官兵衛伝説を唐突に放送したのでしょうか。