2014年2月6日木曜日

3分でわかる母里太兵衛


善助「連れてまいりました!」

太兵衛「太兵衛にございまする!オリーブオイルで槍遣いが非常に滑らかにござりまする」

今回は「3分でわかる母里太兵衛」です。

 

・本名:母里 友信

・母里の読みは「もり」(黒田家中での正式な読みは「ぼり」)

・播磨国妻鹿の国人曽我一信の子として誕生。弟に野村祐勝がいる。土器山合戦で一族24人が討死した母里一族を太兵衛が継いだ。曽我一信と母里氏の女との間の子であったことから母里姓を与えられ、母里太兵衛となった。

・通称は、太兵衛(たへえ、たひょうえ)、幼名は万助。但馬守を称す。

・槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めた。

・黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人。

・「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも知られる(日本号は福岡市博物館に展示されています)。

・一時期「毛利」と改姓(毛利輝元から名乗りを許されたため)。

・妻は大友宗麟の娘。

・初陣:天正元年(1573)の印南野合戦(播磨東部の別所勢らとの戦い)

・天正15年(1587年)正月より開始された九州征伐では、豊前宇留津城攻めで一番乗りの戦功を挙げ、孝高の豊前入国後は6,000石を与えられた。

・文禄・慶長の役にも従軍。

・関ヶ原の戦いでは九州で官兵衛に従って戦い大友義統を降伏させた。

・筑前加増移封後、筑前鷹取城18,000石を拝領した。

・生涯に挙げた首級は実に76と家中で一番であった。

 

■名槍日本号

・元来は皇室所有物(御物)で、正三位の位を賜ったという伝承から、「槍に三位の位あり」と謳われた。

・正親町天皇→足利義昭→信長→秀吉→福島正則と渡った。

・前述の逸話を経て黒田如水の家臣である母里友信が福島正則より貰い受けた。

・朝鮮出兵の際に自身の危機を救った礼として友信より後藤基次に贈られた。

・官兵衛の死後、後藤基次が黒田家を出奔する際に野村家(基次の娘が母里友信の弟、野村祐勝の長男祐直に嫁いだため)に渡されて、以後長く伝えられた。

・大正時代に同家を離れたが、旧福岡藩士出身の安川敬一郎(東証一部上場の安川電機の創始者です!)と頭山満(明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥。官兵衛の墓碑銘がある崇福寺に墓があります!)の二人が、日本号は福岡の地を離れるべきではない、と大金で購入して、旧藩主黒田家に贈与した。

・その後、黒田家より福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館の所蔵品として展示されている。

・その他、広島城には近年になって製作された写し(レプリカ)が展示されている。

 

安川敬一郎や頭山満が大金で購入してくれた事実を知ったとき、私は泣いた。

そういった先人の方々の努力のおかげで、今身近に見ることができる。先の大戦で多くの日本の美術品は焼失ないし海外に流出してしまっていることを考えると、本当にそのような先人の努力に想いをいたし、感謝しなければいけないと思った次第です。

―あの戦国武将の最期―  三好長慶 享年43歳 <有能な弟を次々と失った晩年の心の痛手>



NHK大河ドラマ軍師官兵衛でも描かれていた三好三人衆。この元になったのは、将軍足利義輝を擁立して一時、畿内周辺に覇をとなえた三好長慶がいました。

今回は、三好長慶の晩年の暗転を見てみたいと思います。

 
 

■全盛期

永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに及んでいた(他に近江・伊賀・河内・若狭などにも影響力を持っていた)。

また、従四位下修理大夫に叙任され、塗輿や桐紋の使用も帝から許可され得意満面であった。義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎えた。

■凋落の晩年

・一族を支える弟たちの死

 讃岐を固めていた十河一存(“鬼十河”の異名を持つ)が病死(1561年)。

 本国阿波を固めていた三好義賢が翌年戦死(1562年)。

 水軍を率いた淡路の安宅冬康を自らの手で殺してしまった(1564年)。

・敵対勢力が盛り返す

 畠山氏や根来寺衆徒が力を盛り返した

(十河一存の死で和泉方面の抑えが利かなくなったことや、畠山氏が近江の六角氏を結んで京都を脅かしたことから)。

 また、将軍義輝も裏ではこれらを応援していた。

・嫡男義興の死

 病にかかり22歳の若さで死去(1563年)。

・爆弾、松永久秀

 末弟十河一存、嫡男義興は久秀が毒殺したという噂がある。十河一存は、有馬温泉にて松永久秀と湯治中に突然死。享年30。

 また、安宅冬康は逆心ありと長慶に讒言したという話がある。

・養子に迎えた義継(十河一存の子)が若年で不安。

■死

 15647月、亡くなった。享年43歳。

 1561年頃から病気がちであったともいわれ、嫡男義興の死に深く落胆し、弟安宅冬康の死以降、愁嘆することが尋常でなく病がひどくなったといい、また晩年は連歌三昧の日々を送ったという。

 目まぐるしく変わる中央の政治抗争が長慶の心を蝕んでいたともいい、あるいは、松永久秀や敵対勢力と内通した者が徐々に毒を盛っていったのかも知れない。

■三好家のその後

義継が若年のため松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見役として三好氏を支えたが、将軍足利義輝の暗殺(永禄の変)し、やがて1565年から1568年までの3年間内紛を起こした末に衰退、新たに台頭した織田信長に政権を奪われていった。

1568年、信長の上洛に反発し抵抗するも相次いで敗退し、三人衆の勢力は衰え、元亀年間には岩成友通が戦死し、他の2人も消息不明な状態となり、畿内における三好氏の勢力の衰退と前後して三人衆としての活動は完全に途絶えた。三好政康は後に豊臣氏の家臣として復帰し大坂の陣に参加、戦死したとする説がある。

将軍暗殺や信長が上洛したときに三好三人衆が逃げ去ったことは、NHK大河ドラマ軍師官兵衛でも描かれていました。

■ちょっとした比較

 信長は京都で続いた戦乱を収拾し、乱暴狼藉を厳禁して、京都の町衆の支持を得た。

 優秀な嫡男の死によって失意の晩年を送った武将としては、たとえば、長曾我部元親がいる。嫡男信親は容姿端麗、長身のイケメンであったと言われているが(元親もイケメンというか、甘いマスクだったようだ)、官兵衛たちが軍奉行を務めた秀吉の九州平定戦で戦死している(戸次川の戦い。軍目付の仙石秀久の無謀な突出により島津軍の待ち伏せ戦法にはまり戦死したといわれている)。元親が酒浸りで怒りっぽくなったと言われている。その後、長曾我部家の運命は暗転することになった。

 官兵衛は、その意味では人遣いがうまかったのか、あるいは、献身的な一族に恵まれていたのか、一族や家臣の内紛の話は聞かない。組織にはつきものの派閥争いだが、それをうまく操縦して強い組織を作っていくのは、非常に難しいことだろうし、それができるかどうかはトップにかかっているのかも知れない。