802年
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征夷大将軍・坂上田村麻呂に蝦夷征伐の拠点として胆沢城の築城命令
コメント |
1242年
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12歳の四條天皇が崩御し、以降11日間空位となる。空位となるのは472年振り
コメント 空位の時期があったんですね。そんなのなかったと思っていましたが。 ときは鎌倉時代です。 |
1431年
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ルーアンでイギリスによるジャンヌ・ダルクの異端審問裁判が始まる。
コメント ジャンヌは現在のフランス東部に、農夫の娘として生まれた。 神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、 イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦して勝利を収め、 後のフランス王シャルル7世の戴冠に貢献した。 その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、 身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。 イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって 「不服従と異端」の疑いで異端審問にかけられ、 最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、 19歳で火刑に処せられてその生涯を閉じた(Wikipedia)。 「狡兎死して走狗煮らぬ」ということで フランスの危機を救ったあとに用済みになったのか、 あるいは、不思議なパワーを持っていたことが気味悪がられて 憎悪の対象となったのか、 よくわかりません。 |
1569年
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上洛していた織田信長が堺の町を攻撃。軍用金を課したが応じず、 逆に三好三人衆が京を襲撃してきた為。(新暦1月25日) |
1891年
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不敬事件。第一高等中学校講師の内村鑑三が
教育勅語への拝礼を拒否したため免職。 |
1932年
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ドイツが、第一次大戦の賠償金358億マルクの支払不可能を宣言。
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1932年
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春秋園事件で、日本相撲協会の体質を不満として西方の力士全員が協会を脱退。
コメント |
1933年
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伊豆大島・三原山火口で実践女学校専門部の生徒が投身自殺。
その後三原山での自殺が続出。 |
1943年
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第二次大戦で、南京の汪兆銘政権が対米英宣戦布告。
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1945年
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日本占領下のフィリピン・ルソン島に米艦隊800隻が集結し上陸を開始。
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1951年
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ニューヨークの国連本部ビルが竣工。
コメント 「国連」というのは誤訳で、「連合国」つまり、第2次対戦の戦勝国です。 我が国は敗戦国なので、逆立てしても常任理事国にはなれません。 みずから新たな枠組みを作るしかないでしょう。 |
1952年
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電気通信省(後の電電公社)が慶弔電報の取扱いを再開。
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1953年
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映画『ひめゆりの塔』が封切り。
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1954年
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「東京都騒音防止条例」公布。
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1964年
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警視庁が、個展に模造千円札を出品した画家・赤瀬川原平を
「通貨及び証券模造取締法」 違反容疑で任意取調べ。 |
1964年
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国旗事件。アメリカ統治下のパナマ運河地帯の高校で
米国国旗だけを掲揚した事から暴動が発生。 米軍の発砲で両国民に死者。 |
1966年
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川崎駅前の雑居ビル・金井ビルで火災。一酸化炭素中毒で12人死亡。
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1968年
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アラブ石油輸出国機構(OAPEC)結成。
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1968年
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マラソン選手・円谷幸吉が「もう走れません」と遺書を残し自殺。
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1972年
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退役後、香港で改装中だった豪華客船クイーン・エリザベス号が火災・沈没。
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1983年
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自民党の中川一郎衆議院議員が札幌市のホテルで自殺。
昭一氏は、皆さんご存知のように、コメント 長男、中川昭一氏と同様、謀殺と言われています。 中川一郎怪死事件 http://jikenshi.web.fc2.com/newpage292.htm 記者会見のときに泥酔していた映像が報じられ、 そのあと、亡くなりました。誰がやったのか、謎のままです。 怖いので、これ以上書きません。すみませんが、ご想像におまかせします。 |
1985年
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東京・両国に新国技館が落成。
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1987年
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鹿児島県の国鉄宮之城線(川内~薩摩大口)がこの日限りで廃止。
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1988年
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ソニーがVHS方式の家庭用VTR発売を発表。事実上のベータ方式の敗北宣言。
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1996年
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足立区で女性の首なし焼死体が発見。
過去に殺人事件で起訴されて無罪となった男を逮捕し、 1999年に無期懲役に。 |
2005年
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前年11月のアラファトの死去に伴い
パレスチナ自治政府の大統領選挙を実施。 PLO議長アッバースが当選。 |
2007年
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防衛庁が防衛省に昇格。
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2013年
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大阪市立桜宮高等学校で体罰自殺事件が発覚。
この事件以降、他校でも次々と体罰が明らかとなる。 |
黒田官兵衛を中心に、戦国時代のネタ発信しています。そのほかに歴史関連記事も載せていきます! ■Twitter 歴史king @rekishiking ■書籍 「キリシタン武将 黒田官兵衛―「軍師」官兵衛の実像 天の巻(上・中巻)―」
2014年1月8日水曜日
1月9日に何があったか?
大河ドラマ「軍師官兵衛」第1回の気づき(その1) 2014年1月5日
■全体として
黒田家(小寺家)が当時、置かれていた状況が理解できる内容でしたね。
播磨国で、龍野城の赤松政秀と、置塩城の赤松義祐(則房)に挟まれていた小寺家(実際には、別所氏などの勢力を始め、播磨は分裂状態でした)。父職隆は、その当主小寺政職に信頼を得て、小寺姓を与えられるほどでした。その信頼を裏切らないようにするために、頑張っていた職隆の姿がありました。
その職隆は外様の家臣として、譜代の家臣たちとの軋轢に悩みますが、真心で乗り越えようとしていたように見えます。
この小寺家の家老という立場は、小寺家が滅びるまで官兵衛の足かせにもなります。
その職隆は外様の家臣として、譜代の家臣たちとの軋轢に悩みますが、真心で乗り越えようとしていたように見えます。
この小寺家の家老という立場は、小寺家が滅びるまで官兵衛の足かせにもなります。
■ナレーション
私自身はあまり気にしていませんが、気になった方がおられたようですね。
大河ドラマ武田信玄のときのナレーションでも、(多少)似たような体裁でしたね。
このドラマでは、晴信(のちの信玄公)の母・大井夫人(若尾文子(わかお あやこ))が、自分の息子が後世で誤解されていることが多いため、我が子の名誉のために真実を物語る、という体裁を全話一貫してとっています。
最終回および一部の回をのぞいて、各放送回とも大井夫人の「今宵はここまでに致しとうござりまする」というセリフは、その年の流行語大賞に選ばれました。
大河ドラマ武田信玄のときのナレーションでも、(多少)似たような体裁でしたね。
このドラマでは、晴信(のちの信玄公)の母・大井夫人(若尾文子(わかお あやこ))が、自分の息子が後世で誤解されていることが多いため、我が子の名誉のために真実を物語る、という体裁を全話一貫してとっています。
最終回および一部の回をのぞいて、各放送回とも大井夫人の「今宵はここまでに致しとうござりまする」というセリフは、その年の流行語大賞に選ばれました。
■小田原攻めの場面
ここから話が始まります。
官兵衛は、和睦の使者として単身小田原城に乗り込みます。
時代劇で描かれるイメージでは、圧倒的優勢の秀吉軍が、あえて北条方を助けてやった、力攻めで城方を皆殺しにしないようにしてやった、という風に描かれることが多いです。
しかし、実際には、北条方に巨大城郭小田原城に籠城されてしまって手詰まりになり(小田原城は城内で農産物の生産ができ、長期の籠城に耐えうる城だった)、関白の威信を保つため短期間で決着をつけたかった秀吉が、膠着した局面の打開のため調略を得意とする官兵衛に行かせた、という側面も否定できません。
しかし、実際には、北条方に巨大城郭小田原城に籠城されてしまって手詰まりになり(小田原城は城内で農産物の生産ができ、長期の籠城に耐えうる城だった)、関白の威信を保つため短期間で決着をつけたかった秀吉が、膠着した局面の打開のため調略を得意とする官兵衛に行かせた、という側面も否定できません。
■国滅びてはまた生くべからず、死人はまた生くべからず
小田原城に単身乗り込むとき、「 国滅びてはまた生くべからず、死人はまた生くべからず」と言います。死んでは元も子もない。生きてこそ、活かしてこその人生だ。簡単に殺したり、ダメにしてしまってはいけない。大人の使命ではないでしょうか。
■馬に乗っていた(北条)
小田原城包囲中の秀吉のもとに馬に乗って移動しています。
官兵衛は戦場においては、輿に乗って指揮をしていた、という説が通説ですが、それは、馬に乗れなかったから輿に乗ったということではなく、馬にも乗れたが、輿の方が楽だったんでしょうかね。
官兵衛は戦場においては、輿に乗って指揮をしていた、という説が通説ですが、それは、馬に乗れなかったから輿に乗ったということではなく、馬にも乗れたが、輿の方が楽だったんでしょうかね。
■タイトルの水滴が落ちる場面
オープニング画面で水滴が落ちる場面(毛利元就のときも水滴が落ちます)。「如水」の「水」を表現しているのでしょう。水はどんな形にも変えて器に納まる。逆に、大きな器ほどたくさんの水を入れることができる。自分が、どれくらいの容量を持っているか。
■子役の若山 耀人くん
官兵衛の幼年期、万吉役の子がかわいいと評判に! http://blog.livedoor.jp/ninji/archives/35447084.html …
■質物をとらずに、黒田の家来にならんかと。それが、御着城の小寺政職の目にとまり、仕官した。
祖父重隆が目薬で財を成して、それで土地を買い、家臣を集め、勢力を蓄えていったのが、御着城の小寺政職の目にとまり仕官することができたという話は、司馬遼太郎さんもその説を採っています。本当だったかどうか、不明です。ただ、のちに福崎を福岡に改名しているように、備前国福岡にいたことは確かでしょう。福岡は商業地だったので、商売に関係していたかも知れません。官兵衛の遺訓に商人的感覚が見られますし。
■【伊吹善右衛門から伴天連の話を聞かされる場面】
ふと思ったのが、そのとき山口にキリシタンがいたか?ということでした。
ちょっとマニアックですが。。。のちに官兵衛はキリシタンになるので、ちょっと気になったことでした。
ちょっとマニアックですが。。。のちに官兵衛はキリシタンになるので、ちょっと気になったことでした。
結論は、山口にキリシタンが「いた」かも知れないということでした(イエズス会の史料などご存知でしたらご教示くださいませんか)。
みなさんご存知のザビエル。1549年に鹿児島に上陸しています。
その後、天文19年(1550年)8月、山口に来たフランシスコ・ザビエルは大内義隆に謁見しています。が、汚れた旅装のままで面会に臨む、ろくな進物も持たない、義隆の放蕩振り・仏教の保護・当時一般的だった男色などを非難する、など礼を大いに欠いていたことから義隆は立腹し、布教の許可は下りませんでした。ザビエルは畿内へ旅立ちます。
その後、天文19年(1550年)8月、山口に来たフランシスコ・ザビエルは大内義隆に謁見しています。が、汚れた旅装のままで面会に臨む、ろくな進物も持たない、義隆の放蕩振り・仏教の保護・当時一般的だった男色などを非難する、など礼を大いに欠いていたことから義隆は立腹し、布教の許可は下りませんでした。ザビエルは畿内へ旅立ちます。
天文20年(1551年)4月下旬、ザビエルは再び大内義隆に謁見しています。ザビエルはそれまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを学んでおり、今回は一行を美麗な服装で飾り、珍しい文物を義隆に献上しています。献上品には、本来なら天皇に捧呈すべく用意していたポルトガルインド総督とゴア司教の親書のほか、望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃などがあったといいます。義隆は、ザビエルに対して布教の許可を与え、その拠点として、大道寺を与えています。
しかし、大内義隆は1551年に家臣の陶晴賢に討たれ、その後、1557年毛利元就が防長を攻略して山口に入ります。毛利元就はキリシタン嫌いでしたから、ほどなく追放されたことでしょう(のちに官兵衛が豊後のキリスト教団を、毛利氏に頼んで山口に避難させます)。
官兵衛が生まれたのは1546年ですから、11歳の頃までであれば、伊吹善右衛門がキリシタンと山口の市(まち)で接触していた可能性はあります。ということで、「いた」可能性があるということでした。
■龍野城の赤松政秀に捕らえられた万吉が救出された場面
父は龍野で生捕りになった万吉に、何も言わずに帰るぞといいます。
母いわは、ひとまず万吉の頬を平手打ちにし「お前の軽はずみな行動がどれだけ人に迷惑をかけ、危険な行動だったかわかりますか」と叱ります。でも、そのあとに、命懸けで薬を取りに行ってくれた想いを感謝します。この連携プレー。この威厳と慈愛。
母いわは、ひとまず万吉の頬を平手打ちにし「お前の軽はずみな行動がどれだけ人に迷惑をかけ、危険な行動だったかわかりますか」と叱ります。でも、そのあとに、命懸けで薬を取りに行ってくれた想いを感謝します。この連携プレー。この威厳と慈愛。
■龍野の龍神池とは
母の薬草を採りに行った「龍神池」。
実在の池かどうかイマイチ定かではないのですが、龍野城の南西1kmほど、龍野高校のすぐ横に比較的大きな池があり、龍野城から最も近い大きな池のようです。
地図で距離を図ってみると、姫路城から龍野高校まで、距離16km前後。大人の脚で3時間前後でしょう。万吉とおたつの子供の脚だと、もっとかかったことでしょう。まあ、創作ではありますが・・・
実在の池かどうかイマイチ定かではないのですが、龍野城の南西1kmほど、龍野高校のすぐ横に比較的大きな池があり、龍野城から最も近い大きな池のようです。
地図で距離を図ってみると、姫路城から龍野高校まで、距離16km前後。大人の脚で3時間前後でしょう。万吉とおたつの子供の脚だと、もっとかかったことでしょう。まあ、創作ではありますが・・・
■母を亡くしたとき、ビードロを握っていた官兵衛
伊吹善右衛門からもらったビードロの玉。官兵衛は母いわにあげます。いわが亡くなったとき、官兵衛は泣きもせず、ただ、その玉を握りしめていました。それは母の形見。キリシタンに入信するきっかけとなる母の死を暗示していたのでしょうか。
■剣術の稽古にも精を出し、兵書も読むようになった
母の死をきっかけに、剣術の稽古にも精を出し、兵書も読むようになった官兵衛。父に『三略』の一節を引いて、「謀は密なるをもってよしとす」と献策します。和歌に逃避した話は不採用となりました。
生母のいわが亡くなってから、すぐに元服のシーンに切り替わりました。しかし、『黒田家譜』などでは、母を亡くした悲しみで和歌の世界に逃避したのを、円満寺の僧侶に、戦国の世に武士が和歌などに逃避していてはいけないとたしなめられ、敢然と武士として生きる決意をしています。その場面も描いて欲しかったなあ。
■とにかくよく考えていくことだ、すべては生き残るためだ
赤松政秀は、黒田家の調略を諦めず、祖父重隆を通じて職隆の説得を試みます。
小寺政職に取り立ててもらった義理を重視する父、職隆と、生き残るためにはどうにでも変化しなければいけないと利を重視する祖父、重隆。重隆は、黒田家にとって得であれば赤松でもつくが、職隆は、武士は義で動くもの、利で動くのは商人のすることと言って聞きませんでした。
この一見矛盾する二つ(義と利)をどう立てていくのか。有岡城へ単身乗り込んだ官兵衛が村重に捕らえられたときに、職隆はやはり義をとります。それによって、道が開けていくことになる。
祖父重隆が広峰神社の御師と組んで目薬を売って財を成した話については、根拠が不十分で本当だったかどうか疑わしい話です。金子堅太郎の『黒田如水伝』に初出の話で、司馬遼太郎さんが『播磨灘物語』に採用したため、大河ドラマでも採用されたのだと思います。ただし、官兵衛の遺訓には(いわゆる武士道というよりは)商人的な感性が多分に感じられるので、重隆が商人だったか、商人とのつきあいが多かったか、の影響を官兵衛が受けていた、という可能性は否定できません。
『黒田家譜』(貝原益軒、というより高弟の竹田さん)の重隆記には、
とありますので、彼が備前国福岡にいたようです。
ちなみに、福岡といえば、日本史の教科書で、室町時代の定期市の様子の絵をご覧になった方もおられるでしょう。当時は、シナの明との貿易が盛んで、シナで人気の日本刀の生産が盛んでした。中国地方では、たたら製鉄が盛んでしたから(宮崎監督「もののけ姫」でご覧になった方もあるでしょう)、その鉄を使って刀鍛冶が日本刀を作っていました。
『黒田家譜』(貝原益軒、というより高弟の竹田さん)の重隆記には、
「黒田下野守重隆は、高政の次男であった。永正五年戌辰の年、近江国黒田の邑に生まれ、幼い時に父に付いて備前国福岡に移った。のちに浦上村宗が備前国を荒らしまわったときに、重隆はその災難を逃れて、播州飾東郡(しきとうごおり)姫路に移った。」
ちなみに、福岡といえば、日本史の教科書で、室町時代の定期市の様子の絵をご覧になった方もおられるでしょう。当時は、シナの明との貿易が盛んで、シナで人気の日本刀の生産が盛んでした。中国地方では、たたら製鉄が盛んでしたから(宮崎監督「もののけ姫」でご覧になった方もあるでしょう)、その鉄を使って刀鍛冶が日本刀を作っていました。
重臣の小河、江田に告げ口されても、すぐには信じず、そのあと、石川源吾の陰謀だったことがわかると、職隆の前で、「お前たちは甘い。わしは職隆を信じておったぞ」と、二人に言って、うまく泳ぐ職隆。
こののち、職隆は織田方優勢のときには織田方について、毛利方が優勢のときには毛利方になびき、結局滅びてしまいました。ただ、・・・・(これは、種明かしになってしまうかも知れないので、伏せておきます)
こののち、職隆は織田方優勢のときには織田方について、毛利方が優勢のときには毛利方になびき、結局滅びてしまいました。ただ、・・・・(これは、種明かしになってしまうかも知れないので、伏せておきます)
私は生涯一人の妻しか持ちませんでした、私は「これ」で会社を辞めました(小指)!特集(その4) 本多忠刻(千姫の夫となった人)
この人、誰?と思われた方もおられると思うが、よく大坂の陣で悲劇の姫として描かれる千姫の夫である。大坂の陣のあとに千姫と結婚した。彼は、側室をおいていない。それは、将軍家への気遣いだったのかも知れない。
慶長元年(一五九六)、後の姫路藩主・本多忠政の長男として生まれる。祖父は本多忠勝。大坂夏の陣では忠政と共に出陣し、慶長十九年(一六一五)の道明寺の戦いにも参加して敵の首級を挙げている。戦後の元和二年(一六一六)、徳川家康の孫娘で豊臣秀頼の正室だった千姫と婚姻した。家康が臨終の際に、政略結婚の犠牲とした千姫のためを考えて、忠刻やその生母に婚姻を命じたとする逸話もある。
この輿入れのとき、「千姫事件」が起きている。この事件は、元和元年(1615年)の大坂夏の陣による大坂城落城の際に、坂崎直盛(宇喜多詮家、宇喜多秀家の従兄弟)は、千姫を大坂城から救出した(実際には、豊臣方の武将、堀内氏久が直盛の陣まで護送した後、直盛が秀忠の元へ送り届けた、とする説が有力)。直盛は火傷を負いながら千姫を救出したにもかかわらず、その火傷を見た千姫に拒絶されたことで、千姫奪取計画を立てる事件を起こしたと言われている(ただし火傷に関しては俗説とする説も有力)。
家康より千姫の縁組を依頼された直盛が、公家の間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに、突然、本多忠刻との縁組が決まったため、面目を潰された直盛が千姫奪回計画を立てたと言われる。しかし、計画は幕府に露見し、直盛は切腹したとも、斬首されたとも言われる。
まあ、筆者の推測では、大坂の陣で豊臣家は滅亡したことを契機に、宇喜多家出身の直盛を、しばらく生かしていたが、はめるワナと仕掛けたんだろうと思う。直盛に千姫の身の振り方を依頼すること自体が不自然だし(秀頼との政略結婚の道具にしてしまったことを悔いた家康が、自ら相手を選ぶのが自然)、突然縁組が勝手に決まるのも不自然だ。きな臭さを感じる。直盛が亡くなったあと、直盛の所領だった津和野藩に近い、安芸の福島正則が難癖つけられて改易になっている。
千姫との間には、結婚して二年後に元和四年(一六一八)に長女・勝姫(池田光政室)、元和五年(一六一九)には長男・幸千代が生まれている。夫婦仲はよかったのか知れない。しかし、元和七年(一六二一)に幸千代が三歳で早世し、忠刻も寛永三年(××)に結核のため亡くなってしまった(享年三十一)。
なお、宮本三木之助(二十三歳)は忠刻の供をして殉死し、その他に岩原牛之助(二十一歳)も殉死した。忠刻は忠政の世子だったが早世したため、弟の政朝が世子となって姫路藩第二代藩主となった。
家康や秀忠が、千姫の幸せを願い、幸せな結婚生活にふさわしい相手として選ばれたのだろう。夫、忠刻もその期待に応えて、千姫に女性としての幸せともたらしたのだった。
【番外編】1月8日今日は何だった日?
○1月8日今日は何だった日?
1875年 明治天皇即位
1912年 国鉄上野駅に初の発車ベルが設置される。
1918年 ウィルソン米大統領が議会で第一次大戦和平と戦後世界についての14か条を発表。
1932年 桜田門事件。陸軍観兵式からの帰途の昭和天皇の馬車に皇居桜田門附近で朝鮮人が手投弾を投げつけ逮捕。
1934年 京都駅構内で入団・入営の見送りで混雑して階段で将棋倒しとなり、77人が圧死。
1941年 東條英機陸相が軍の行動規範「戦陣訓」を陸軍将兵に示達。
1952年 東京・京橋にブリヂストン美術館が開館。
1959年 シャルル・ド・ゴールがフランス第五共和政の初代大統領に就任。
1972年 皇室の新年伝統行事だった鴨猟を取止め。招待された環境庁長官が「自然保護の立場と矛盾する」として出席を見合わせたため。
1973年 ソ連の月探査機「ルナ21号」が打ち上げ。
1973年 外務省が、初来日予定だったローリングストーンズのビザ申請を拒否すると発表。
1985年 新国技館完成
1985年 東大宇宙科学航空研究所がハレー彗星探査機「さきがけ」を打上げ。日本初の人工惑星。
1989年 昭和天皇の崩御・皇位継承に伴い平成に改元。初の法令に基づく元号。
1994年 ワレリー・ポリャコフが宇宙ステーション「ミール」に向かうために地球を出発。1995年 3月22日に帰還するまでの437日は世界最長の宇宙滞在期間。
2005年 米海軍の原子力潜水艦「サンフランシスコ」が最大速度で航行中に海山に衝突。乗組員1人が死亡。
2012年 サッカーの澤穂希さんがアジア選手初の女子FIFAバロンドールを受賞
○1月8日に誕生された方々
1173年 明惠上人 (僧侶,華厳宗中興の祖「月の歌人」)[1232年1月19日歿]
1646年 徳川綱吉[とくがわ・つなよし] (江戸幕府将軍(5代)「犬公方」)[1709年1月10日歿]
1912年 今井正[いまい・ただし] (映画監督『青い山脈』『橋のない川』)[1991年11月22日歿]
1926年 森英恵[もり・はなえ] (服飾デザイナー)1996年文化勲章
1930年 小山内美江子[おさない・みえこ] (脚本家『3年B組金八先生』)
1935年 エルヴィス・プレスリー (米:ロック歌手)Elvis Aaron Presley[1977年8月16日歿]
1942年 スティーヴン・ホーキング (英:理論物理学者(宇宙論))Stephen
William Hawking
1942年 角川春樹[かどかわ・はるき] (映画監督,俳人,角川書店社長[元])
1942年 小泉純一郎[こいずみ・じゅんいちろう] (首相(87代~89代),衆議院議員[元],郵政相(55代),外相(131代),厚相(73・74・86代),農水相(38代))
1942年 真屋順子[まや・じゅんこ] (女優)
1942年 落合信彦[おちあい・のぶひこ] (ジャーナリスト,小説家)
1947年 デヴィッド・ボウイ (英:ミュージシャン)David Bowie
1947年 寺田千代乃[てらだ・ちよの] (経営者,アートコーポレーション創業)
1950年 南佳孝[みなみ・よしたか] (シンガーソングライター)
1951年 もんたよしのり[もんた・よしのり] (歌手)
1952年 鮫島有美子[さめじま・ゆみこ] (オペラ歌手)
1952年 大迫たつ子[おおさこ・たつこ] (ゴルフ)
1954年 田尾安志[たお・やすし] (野球(外野手・監督))
1968年 蛍原徹[ほとはら・とおる] (お笑い芸人(雨上がり決死隊))
1970年 荻野正二[おぎの・しょうじ] (バレーボール)
1972年 田村亮[たむら・りょう] (お笑い芸人(ロンドンブーツ1号2号))
1973年 7代目市川染五郎[いちかわ・そめごろう7] (歌舞伎役者)
1983年 金正恩(キム・ジョンウン) (北朝鮮:朝鮮人民軍大将,金正日の子)
○1月8日に亡くなった方々
1324年 マルコ・ポーロ (伊:探検家『東方見聞録』) <69歳>Marco
Polo[1254年9月15日生]
1615年 高山右近[たかやま・うこん] (キリシタン大名,茶人) <数え64歳>キリシタン追放令により流されたマニラで歿[1552年生]
1642年 ガリレオ・ガリレイ (伊:物理学者,天文学者) <77歳>Galileo Galilei[1564年2月15日生]
1923年 島村速雄[しまむら・はやお] (海軍軍人) <64歳>[1858年9月20日生]
1949年 梅津美治郎[うめづ・よしじろう] (陸軍大将) <67歳>[1882年1月4日生]
1950年 ヨーゼフ・シュンペーター (墺・米:経済学者) <66歳>Joseph
Alois Schumpeter[1883年2月8日生]
1976年 周恩来[しゅう・おんらい] (中華人民共和国:国務院総理,外交部長) <77歳>[1898年3月5日生]
1994年 出光計助[いでみつ・けいすけ] (経営者,出光興産会長,創業者出光佐三の弟) <93歳>[1900年6月24日生]
1996年 フランソワ・ミッテラン (仏:大統領(第五共和政4代)) <79歳>François Maurice Adrien Marie
Mitterrand[1916年10月26日生]
1996年 三橋美智也[みはし・みちや] (歌手) <65歳>[1930年11月10日生]
2011年 横澤彪[よこざわ・たけし] (テレビプロデューサー[元](フジテレビ)) <73歳>[1937年12月15日生]
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